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心に残る言葉

心に残る言葉

ここでは、フリッツ・クライスラーの秘密に関連して、私の心に残る彼の言葉などを、おもに引用を交えて、思いつくまま集めてみましょう。

 私自身についていえば、私がクライスラーの音楽から受ける印象は、たとえばハイフェッツの時のような「凄い」という圧倒的なものではなく、ただ、耳に届いてくる音が「楽しい」あるいは「懐かしい」といった種類のものなのです。

 その理由を、自分なりに探していたとき、演奏者自身の次の言葉は、大変良いヒントとなるように思われました。
 クライスラーは、こう言っているのです。
 いわく「私自身についていえば、何を弾いても、あるいはまた弾けないものでも、それを楽しむことにしています。(「バイオリン技法」から引用)と。
 つまり、当たり前のことですが、演奏者が楽しくないものを、聴衆に楽しいと感じさせることはできない、ということでしょうか。

 

 私たちが音楽を鑑賞するとき、その演奏の質にたいする評価は、演奏家にたいする自分自身の思い入れ(好悪)の程度とか、演奏家の知名度とか、演奏家のかもしだす雰囲気とか、批評家による前評判とか、さまざまあると思うのですが、ある時、クライスラーはこう述べたそうです。

 いわく「私が信頼できる唯一の批評的判断は脊柱のくだす判断です。私自身の演奏であれ他人の演奏であれ、私は自分の背筋に戦慄をおぼえたとき、それを良い演奏だと判定するわけです。批評家たちが何と言おうと、それ以上に良い鑑定法はありません。(「フリッツ・クライスラー」から引用)と。

 

 クライスラーが、ヴァイオリニストの本業のほかに、優れたピアニストであり、また、作曲でも一家を成したことは、よく知られた事実ですが、このようなオールマイティ性は、別に特殊なケースとして把握されるべきものではなく、ほんらい、音楽芸術家はそうあるべきものだとして、彼はこのように発言します。

 いわく「人は前世から芸術家になる約束で生まれてきたのだと私は思います。しかし、バイオリニストになるか、セリストになるか、ピアニストになるかは、そのときの状況によることです。私の考えるバイオリンの熟達は、最も完全な技巧を身につけても、自分の演奏する楽器のことだけしか考えないならば、やはり完成には到達しえないものだと思います。結局、楽器は表現の単なる手段にすぎないということです。真の音楽家は特定の楽器をもった芸術家です。(「バイオリン技法」から引用)と。

 

 クライスラーは、あれほど多くのコンサートをマメにこなしたことからも分かるように、ステージに立つこと自体が喜びであるといった、生まれついての演奏家でした。彼自身の言葉を借りれば、

 「こういった人間は、演奏するためには、自らお金を出すのも惜しまない(「ヴィルトゥオーソの世界」から引用)という、まさにそのままのタイプの人だったようです。

 

 さらに、クライスラーは、レコーディングに際しても、演奏会に臨む時と変わらぬ気持ちで演奏を楽しみ、細かい部分的な失敗などは、さほど気にしなかったといいます。
 彼には、親友で完全主義者のピアニスト、ラフマニノフと共演したソナタのレコードが残されていますが、その録音にまつわる面白いエピソードが、「フリッツ・クライスラー」に紹介されています。

 つまり、あれこれ納得がいかない箇所を気にして、
 「ラフマニノフはなおも数日間思い悩んだすえ、もう一度録音しなおそうと言いだした。ところが、そのアンサンブルの長所のみに満足した友人フリッツは、ぜんぶやりなおそうというその申し出を巧みにはぐらかしてしまった。」のだそうです。

 

 最後に、私は、ごく個人的な印象のお話をして、皆さまにご提供するこのお品の、仕上げの隠し味にしたいと思います。

 

 それは、私が、大半の現代の演奏家の方々に対して、なぜか、ある種の「物足りなさ」を感じてしまう、ということなのです。

 じつに鮮やかで危なげがなく、音も豊かで美しく、表現の自在な変化もマスターして、アマチュアの私などから見れば、ただただ驚嘆するほかはない、若手演奏家たちの妙技。
 そして、おもにレコードを通じて接する、少し前の「巨匠」や「大家」と呼ばれたヴァイオリニストたちの、模範的解釈といわれる名演奏。・・・
 けれども私には、それらの中に、少なくとも私にとってはとても大切な、「ある物」が、まま欠け落ちているように、思えてならないのです。

 しかし、その「ある物」は、クライスラーの中には、間違いなく存在しているのです。

 もちろん、それは、単なる時代錯誤から来る趣味的な愛好、あるいは、クライスラーに傾倒するあまりの錯覚、なのかも知れません。
 さらにまた私は、その「ある物」を、具体的に表現することすらできないのです。

 

 ただ、ひょっとしたら、「ヴィルトゥオーソの世界」から引用させていただく、クライスラーの次の言葉が、私の代わりに、皆さまにそのヒントを与えてくれるかも知れません。
 そして、皆さまが、何かの折に、そのことをちょっと、一緒に考えていただけるならば、望外の幸せと存じます。

 なお、表現の中に「今日」とあるのは、その言葉の語られた、今から半世紀ほど前のこととご理解ください。
 また、前後の引用文をつなげる「しかし」の語は、訳文の原文にはないのですが、文意のつながり上、私の一存で、あえて補足させていただいた言葉であることをも、ここでお断り申し上げます。

 

 クライスラーのその言葉は、こう述べられています。

 

 「今日の若いヴァイオリニストの技術的水準には、本当に驚くべきものがあります。今日では、パガニーニの天才とは言えないまでも、彼の技巧を身につけた若い音楽学生の数は何百といるでしょう。どんなテクニックの困難も、彼らを阻止することはありません。彼らは彼らの楽器用にもっともむずかしく書かれたものを、実に楽らくとひきこなします。これはヴァイオリンの演奏史上、今だかつてまったく見られなかったことです。」しかし、「演奏の精神と大演奏家の放射能とも言えるあの神秘的な力といった点からみますと、現代は過去の世紀と大した違いはありません。」

 

 

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