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暗譜力

練習法

品格

楽器

心に残る言葉

 

 次に、フリッツ・クライスラーをしてあの演奏を可能ならしめたものは、これらのヴァイオリンの演奏技術だけではありません。その陰の大きな柱として、少なくとも三つ、つまり、暗譜力、練習法品格があったものと思われます。

暗譜力

まず、第一に、クライスラーは、幸運にも、飛び抜けた記憶力の持ち主であったことがあげられます。

 クライスラーは、世界各地を旅して回りましたが、その土地の言葉を、その都度、さして苦もなく覚えてしまい、何ヵ国語をも流暢に話すことができたそうです。

 そして、その記憶力は、とりわけ、彼が楽曲を暗譜するのに遺憾なく発揮されました。
 クライスラーは、どのヴァイオリンの曲もすべてスコア(総譜)で記憶した、といいます。ソナタであればピアノ伴奏部分と一緒に、協奏曲ならオーケストラ部分と一緒に、あくまで全体の構成要素としてのヴァイオリンのパートを、頭の中にしまい込むことができたのです。

 クライスラーが、生涯を通じてスコアの研究に熱心であったことは、もちろん、彼の作曲家としての豊かな才能と、けっして無関係ではなかったことでしょう。しかし、演奏家としての彼にとって、スコアがどういう役割を果たしていたかは、次のエピソードからも、推察することができます。

 晩年、クライスラーが交通事故がもとで、視力と聴力に少なからず異常をきたした後のことです。
 彼は、もしその二つの内、どちらかを失わなければならないとしたら、どちらを選択しますか、と質問されたのに対して、迷わず、視力だけは残したい、と答えたのです。
 その理由として、彼はこう言います。
「私は譜面を読めば音楽が聞こえてきます。(中略)事実、私は演奏を聴いているときよりも譜面を読んでいるときのほうが余計に美しさを感じとることがたびたびなのです。(「フリッツ・クライスラー」から引用)と。

 その驚異的な暗譜力については、たとえば、こんなエピソードも伝えられています。

 クライスラーが、すでに六十歳を越えた頃、アメリカ西部の町での演奏会に移動する途中、寝台車の中で、彼は一心にシベリウスのヴァイオリン協奏曲のオーケストラの総譜に目をとおしていたそうです。そして、「あたりまえのことといった調子で、自分は西部の目的地に着くまでにこの協奏曲をすっかり頭に入れてしまい、必ず暗譜で弾けるようになるだろう、と言うのです。考えてもごらんなさい。彼はそれまでヴァイオリンのパートを試験的に弾いたことすらなかったのですからね!(「フリッツ・クライスラー」から引用)というのが、その目撃者である、楽器店の店主の感想でした。

 伴奏者のラウハイゼンは、クライスラーが、たとえソナタであっても、本質的に暗譜で弾いたということを証言し、それは一つには彼が近眼であったせいもある、と理由づけしています。そして加えて、伴奏者との釣り合い上、必ず、譜面台に楽譜をおいて取り繕っていた、とも述べています。
 ただ、この理由を疑問視したロックナーは、その著書「フリッツ・クライスラー」の中で、クライスラーが暗譜で演奏した真意を、次のように補足しています。つまり、「楽譜を見ながら弾くと演奏者は必ず自由を奪われ、当の作品にたいする解釈に全身全霊を傾けることができなくなるからである。」と。

 クライスラーが、暗譜をどう取り扱っていたかは、やはり「フリッツ・クライスラー」から引用すれば、彼自身のこのような言葉があります。
「私が曲を暗記すること、それはあたかも、心のなかのレコードにその曲を刻みこむようなものです。いったん刻みこまれると、その盤は何年でも使えます。」と。そしてさらに、多少古くなって、汚れてきたと思ったときだけ、もう一度盤を取り出して、掃除をし直した上で、仕舞い直すのだそうです。

 

 

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