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音色

運弓

リズムと歌い回し

暗譜力

練習法

品格

楽器

心に残る言葉

運弓

ヴィブラートが左手で音色を創り出したとすれば、フリッツ・クライスラーの力強くもリズミカルな楽曲の表現法や、独特の豊かな響きのある歌い回しは、彼の右手、つまり運弓法(ボーイング)によるものでしょう。

 クライスラーの独特な運弓について、「二十世紀の名ヴァイオリニスト」によりますと、次のように書かれています。
いわく「長い運弓の原則(中略)を彼は投げすててしまい、そのかわりに、弓をより短くしかしゆっくりと動かし、そしてより力強く弾くという、できるかぎり経済的な運弓法をもちこんだ」と。
 この点も、各文献で、だいたい同様の表現がされています。
 さらに、「ヴァイオリン演奏の技法」には、その理由の一つとして、クライスラーの右腕が、体全体の大きさからするとかなり短く、その為に、彼はもともと、弓の両端を使うことを好まなかった、という興味深いエピソードをも掲げています。

 しかし、フレッシュは、同書の中で、クライスラーはあくまで例外であり、彼のように、少ない弓の量でしかも強い圧力をかけて強い音を出すことは、好ましいことではないとして、次のように述べてもいます。
いわく「弓を大きく使えという教えは、フランス・ベルギー式及びロシア式運弓法の核心を成すものであるが、この教えは、要するに最も健康な最も認められた原則の一つであることに間違いはない。」と。

 クライスラーが通常、いかに弓を少ししか用いなくとも演奏できたかは、「フリッツ・クライスラー」の中の次のエピソードからでも、じゅうぶん推測できるでしょう。
 つまり、ある演奏会の直前にひげを剃ったところ、その石鹸の泡が、偶然弓にも飛び散っていたとみえ、ステージに上ってから、弓の中程に来ると急に音が出なくなっている(松ヤニがうまくついていないと、ちょうどこういう状態になるものです)ことが判明しました。もちろん、代わりの弓を準備する余裕がありません。たまたま、パガニーニの協奏曲だったそうですが、仕方がないので、クライスラーはそのまま、先弓と元弓だけで、その曲をのり切った、というのです。

 フレッシュの主張の是非はともかく、私の個人的な経験からしますと、このような運弓法は、むしろ、きわめて合理的かつ好ましいものに思えます。もし、その為かりに、視覚的に、観客へのアピールの派手さとか、ダイナミックな印象づけが、幾分かは犠牲になるとしても。

 たとえば、弓を少なく、しかもできるだけゆっくりと使用することで、音色は凝縮され、はるかに濃密で緊張感を保ったものになりますし、その半面、一般的に弓をことさら大きく使うことで生ずる、金属の弦を一気に引っ掻くような、なんとも不愉快なうなりのような粗雑な音は、一切消滅するのです。
 また、この奏法で大きな音を出すためには、弓を駒近くに移動し、かつ弓に少し余分に圧力を加えてやればよいだけですし、弓を少なく使用することとあいまって、ほとんど瞬間的に楽器自体から音が放散して、弾いた音を聴かせるというよりは、響かせた音を聴かせることができるのです。
 何かの折に、一度おためしください。

 

-追記 (04年05月31日) -

 ごく最近、私は、ごく断片的なものではありますが、クライスラーの貴重な演奏情景を記録した映像に、触れることができました。
 それは私に、以前から想像して抱いていたのとは少し異なる印象と、クライスラーにたいする新たな敬愛の念とを、共にもたらしてくれました。

 そこで、「追記」という形で、その辺りについて、少し触れさせていただこうと思います。
 なお、DVDの形で提供されている資料そのものについては、別項「クライスラーの演奏資料/ディスコグラフィ」の中に、「DVD編」を追加させていただきましたので、ご参照ください。

a)映像資料の概要

 第二部 「ヴァイオリンを超えた音楽家たち」チャプター番号25「クライスラー:「愛の悲しみ」 1926年」 と名付けられたその映像は、クライスラーその人のコンサートの様子を録画したものではありません。

 それどころか、ひょっとしたら、クライスラーはいわば 「おまけ」 で、たまたま映されたのかも知れません。というのも、そこは 「病室」 であるらしく、年配の婦人が一人、ベッドの上に半身だけを起こし、その傍らに立ったクライスラーが、彼女のために何曲か演奏していたような雰囲気なのです。
 全部合わせても三十秒足らずの映像の中には、彼女の家族らしい少年や犬まで登場してくるありさまで、演奏場面も切れぎれ。しかも肝心なクライスラーは、ほとんど右後背部からのアングルで捉えられているのです。もちろん、もとはサイレントだったと思われます。

 この1926年 (クライスラーは五十一歳) という記録年代が、いろいろな傍証から確かなものであるとしても、バックに流される 「愛の悲しみ」 が、はたしてここで演奏されていたものかどうか、やや疑問も残ります。

 

b)演奏スタイル

 それでも、クライスラーのヴィブラートと弓使いのごく一端は、伺い知ることができるようです。

 まず、ヴィブラートについては、曲目 ("愛の悲しみ" の終末近辺、甘くほろ苦いあきらめを歌っているような、展開部の繰りかえし部分) のせいもあるものか、今日の演奏家によく見受けられる、顕著な肘中心のヴィブラートの動きではないようで、手首または指のさりげないヴィブラートをかけているようでした。ただ、左腕全体が非常にしなやかな印象を受けました。おそらく、楽曲上の必要に応じて、強いものから撫でるようなものまで、自在に操れたのでしょう。

 クライスラーの有名な 「少ない運弓法」 は、正直なところ、私が想像していたほど極端なものではありませんでした。クライスラーも、元弓・先弓などを、それなりにちゃんと使っています。中弓の近くだけで何度も弓を返し、チマチマと窮屈な弓使いをしている、というわけでは、決してなかったのです。
 ただ、DVD に登場するほかの 「巨匠」 に比べると、そう言われてみればやはり、弓の量は少な目かも知れませんし、また、運弓のスピードも、悠揚迫らずといった風で、ゆったりとしたものであるには違いありません。

 同時代のほかのヴァイオリニストの証言にあるように、もし、いつも弓を 「少なく使っ」 ていたのが間違いないならば、クライスラーは、「弓の量」 の変化によってではなく、最もふさわしい 「弓の場所 (元弓・中弓・先弓・駒の近く・指板の近く、などです)」 の選択と、弓に加える「圧力」の変化によって、あの独特な楽曲表現を可能ならしめていたものと思われます。

 ともあれ、クライスラーのそうした弓使いは、出てくる音と同じように、じつに優美そのものであり、粗雑な部分などは微塵も見受けられません。
 ちなみに、ほかの演奏家の中で弓使いが美しいと感じたのは、ハイフェッツとメニューインでした。

 ハイフェッツの弓さばきの鮮やかさは、素晴らしいの一語に尽きます。しかも、運弓が非常に闊達俊敏で、おそらくそれがため、弓をかなり大きく使ってはいても、濁りの少ない、特長のある美音が実現されているのではないでしょうか。
 また、メニューインは、これまで、個人的にはさほど関心がなかったのですが、この映像で見る限り、オイストラッフにひけを取らないほどの、魅力的な美しい音色を持っていますし、何より、演奏している姿そのものが、洗練されていて、本当に絵になっていました。
 それに対して、クライスラーの後継者とも目されたオイストラッフは、レコードから流れ出るあの叙情的で豊麗な音色にもかかわらず、弓使いは、思ったほど繊細ではなく、むしろ荒いようにすら感じました。それは、たまたま、曲目のせいであったかも知れませんけれども。

 

c)風格と演奏家魂

 お話を戻して、この短い記録映像から、私は、クライスラーが持って生まれた、風格とか演奏家魂とかいったものに、改めて、強く印象づけられました。

 名手といわれる演奏家には、つむぎ出される音楽の中からはもとより、その一挙手一投足の動きの中からも、多かれ少なかれ、聴衆であるわれわれに放射されてくる、言うにいえない魅力のようなものが感じられるものです。

 クライスラーの演奏の姿がまさにそうで、何のてらいも気負いもない動きなのに、ちゃんとそのまま、様になっているのです。ヴァイオリンは、終始しっかりと構えられ、左右の腕以外の余分な身体の動きはなく、ほとんど直立不動の感じで、頭のブレすらないのです。
 たとえ音がなく、ただ見ているだけでも、まるで心が吸い寄せられるようで、これこそが、大芸術家の風格というものなのだと、そう思いました。

 また、演奏が終わった直後、ちらっと見せる、はにかんだような柔和な表情も、実際のコンサートホールでもこんなだったのだろうかと、なんとも微笑ましく、印象的でした。

 さらに、カメラマンを入れてもおそらく三人と一匹の聴衆だけを前に、「愛の悲しみ」 という何気ない曲を、それでもクライスラーが、いかに 「心を込めて」 演奏しているかは、その動きから明瞭に伝わってくるのです。
 たとえそれが、演奏家冥利ともいえる大曲や難曲であろうが、たった二、三分で終わる小品であろうが、また、聴かせる相手がホール一杯の着飾った紳士淑女であろうが、たった一人の病人であろうが、クライスラーの演奏の態度は、きっと変わらなかったのではないでしょうか。

 そして、ひょっとしたら、クライスラーがクライスラーである本当の魅力は、この無垢で飾らない演奏家魂の中にこそ、あったのではないでしょうか。

 

 

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