エマニュエル・スウェデンボルグ

エマニュエル・スウェデンボルグ

     (1688~1772)

 

=スウェデンボルグの詳細の目次(リンク)=

その生涯

思想の特徴

霊能の事例

その生涯

 ここではまず、彼の生涯の足どりを、若年期、壮年期初老期晩年期に分け、ごくかいつまんでご紹介してみましょう。
 なお、内容はおおむね、後述の参考文献の「巨人・スウェデンボルグ伝」の記述によっております。ここに、その出典を明らかにいたしますとともに、当該文献に深く感謝申しあげます。

若年期

スウェデンボルグは、1688年1月29日、スウェーデンのストックホルムで生まれました。

 幼名、エマニュエル・スウェドベルイ。
 父親イエスペルは、牧師でしたが、後にウプサラ大学の神学教授などをへて僧正となり、貴族にまで叙せられます。
 ちなみに、スウェデンボルグの姓は、1719年以降、彼の家族が貴族となってからの新しい家名なのですが、煩雑なので、ここではすべて、スウェデンボルグの呼び方で統一させていただきます。
 実母のサーラ・ベールは、彼が八歳のとき亡くなり、その後は、継母のサーラ・ベルルイアに育てられますが、彼女は、とくにエマニュエルを可愛がってくれたそうです。

 子供の頃のこととして、彼はよく、姿の見えない遊び友達と遊んでいた、と伝えられています。それはつまり、彼が時々、信仰のことなどで、まったく子供離れした高度な意見を述べ、しかもそれを、庭で一緒に遊んでいた少年たちに教えてもらったのだと答えるため、彼がたしかに「一人で」遊んでいることを知っている両親は、彼はきっと天使たちと遊んでいたのに違いないと、ひどく驚いたということなのです。

 エマニュエルは、十一歳でウプサラ大学に進学し、後年の彼の言葉を借りれば、やがて十四歳の頃には、彼の子供時代は終わったのでした。

 

聖職者であった父親が、この上なく反科学的な人物であったにもかかわらず、エマニュエルの周りには、幼い彼の家庭教師となった従兄弟のモレーウスを初め、姉アンナの夫のベンセーリウスなど、科学につよい関心を持つ人々がいました。

 彼らは、この少年が早くから 「事実の世界」 に目を開かれていた点に関して、決定的な役割を果たしたようです。
 彼は、大学で、数理学 (数学を中心として、それに関連した物理学・天文学・統計学・光学などをひとまとめにして、当時そのように呼ばれていました) や医学を熱心に学びます。また、彼の卒業論文のテーマは、ローマ時代の金言警句を分析して、心理学的な面からアプローチするといった種類のものでした。

 しかし一方、神学などにはあまり関心を示さず、その上、卒業前後の彼には、いくぶん、どもるクセすらあって、その点からも説教を重視する聖職者には適さないと、判定されていたようです。

 

1710年春、すでに卒業して二十二歳になっていたエマニュエルは、彼の興味を引きつけてやまない数理学をさらに学ぶべく、ロンドンに渡ります。

 資金的にも余裕のなかった彼は、労働者階級の住む騒がしい地域の、ある時計職人の家に下宿しました。そして、仕事を手伝うことで資金の足しにしながら、しっかり彼らの技術をも吸収していったのです。彼はそれ以後、わざわざいくつかの職人の下宿を、転々とさえしました。

 もちろん、このロンドン滞在中、数理学者をあちこち訪問して教えを請うたり、また、スウェーデン王立科学院から依頼された各種の情報集めに奔走することで、イギリスの大科学者たちと自然な形で接触を持ったりしています。
 そのほか、グリニッチ天文台からたまたま出された、「海上で経度を知るにはどうすればよいか」という懸賞に応募して、月を利用するユニークな経度測定法を初めて考案しています。これは、当時の大天文学者ハレーも賛同するほどの高度なもの (ちなみに、現代の天文学者も、その測定法の優秀性を認めています) だったそうですが、実用化上の問題などから、当選することはできませんでした。ただ、エマニュエル自身は、この方法の正しさを信じて疑わず、その後の人生でも長く、折に触れて、工夫改良や発表をしているようです。

 イギリス滞在三年目になると、彼は半年ほど、ロンドンの喧噪を離れ、オックスフォードの静けさの中で、心おきなく図書館にこもって、勉学にいそしんでいます。
 彼は、ここでも、機械学的な知識の吸収に、もっぱらの努力を傾けていたのですが、その読書のほんの傍ら、ノリス (オックスフォードの 「霊魂の会」 なるものの一員であったこの人物は、エマニュエルが同地におもむくわずか前に、死去していました) の神秘主義的な著作に触れ、その思想に少なからざる興味をそそられた、といわれます。
 また、やはりこの頃、ある音楽を愛する女性に心を奪われ、いくつかの詩を捧げたそうですが、女性の名前はもちろん、その出来事のてんまつも、定かではありません。

 こうして、三年にわたるイギリス滞在の後に向かったオランダでは、哲学者スピノザなどの思想を吸収し、次いで一年ほど滞在したパリでも、有名な天文学者などと、積極的に接触しています。
 そしてついに、1715年の夏、五年におよぶ留学を終え、エマニュエルは、いくつもの発明考案のリストをたずさえ、ようやくスウェーデンに帰国したのです。
 そのリストの中には、今日でいうグライダータイプの飛行機、潜水艦、機関銃、水銀利用の空気ポンプ、気密型ストーブなどのアイデアやプランを初め、とりわけ、当時のスウェーデンの実状を考慮にいれた、もっぱら水力利用による、各種機械装置の具体的な設計図面などもあったといいます。

 なお、この留学ぜんたいを通じて、最初に滞在したイギリスが、若いエマニュエルに与えた影響は、計り知れないものがあったように思われます。なぜなら、エマニュエルが滞在していた当時のイギリス国内では、言論の自由、思想の自由、信仰の自由などが人々にゆきわたり、ありとあらゆる立場からの議論がたたかわされており、むろんそのための対立も表面化はしていましたが、半面、ものごとの多面的な把握や理解の大切さを、いろいろ身をもって体験したであろうからです。
 後年、スウェデンボルグ自ら、初めてイギリスに渡った1710年を、「精神的開眼の年」 と位置づけていることからも、それはうかがい知れるのです。

 

しかし、エマニュエルのこの素晴らしい知識やアイデアは、初め、母国スウェーデンではまったく受け入れられませんでした。

 というのも、彼には、長い間、これといった就職先も見つからなかったのですから。
 この頃のスウェーデンは、度重なる戦争や遠征で人民も国土も疲弊し、かといって工業や鉱業を発展させようとする活力もなく、さらには、科学の学会と呼べるものすらありませんでした。

 そこで、エマニュエルは、当時国内で大発明家として名高かったポルヘムと組んで、1716年1月、これまでのようなラテン語でではなく、初めて母国語で書かれた科学雑誌の定期出版を、とりあえず自費で、開始します。その雑誌はやがて、国王カルロス十二世の目にとまり、二人は、王に謁見することになりました。
 国王は、幸いにも機械や数学に関心があり、そしてなにより、エマニュエルのすぐれた資質をすぐ見抜いて、特命により、彼を国立鉱山局の予備の監査官に任命してくれました。しかし、実際に彼がその職に就くのは、さらに遅れて、1717年の春、彼が二十九歳の時のことなのでした。
 この1717年から翌年にかけて、エマニュエルは、国王の思し召しに感謝するためにも、また母国に具体的な新しい産業を興すためにも、応用技術家の立場から、製塩産業の開始のための基礎づくりや、ストックホルムから海への水路 (これが、現在イエータ運河と呼ばれるものへと、発展することになるのです) の建設のための予備調査で、せっせと働きます。

 しかし、1718年終わり近くに、国王が死去すると、エンジニアとしての仕事は、突然中止させられてしまいました。そればかりではなく、かろうじて籍は残されたものの、予備監査官としての俸給も、その後は支払われなくなりました。職場ではこれといった仕事もあてがわれず、彼は、例の雑誌の出版を含めて、自分の中だけで価値を見いだせる科学的な研究やその発表をしたりして、気を紛らわせているしかありませんでした。
 この時期のこうしたプライベートな業績としては、たとえば、スウェーデン科学学会の創立への貢献、同じくスウェーデンの国土に関する地質学的な新発見などが、あげられています。
 この間、彼の家計を支えたのは、実母の遺産と、やはり1721年に亡くなった継母の遺産とでした。1722年春から夏にかけては、少し経済的なゆとりが出たため、アムステルダムに、鉱業や冶金業の研修視察に出かけたりもしています。

 そうこうして、亡き国王特命の予備監査官エマニュエルが、念願の正式な監査官に就任でき、ともかくも俸給を得ることができたのは、1724年の夏、じつに彼が三十六歳の時のことだったのです。
 鉱山局は、直接国王に所属する枢要の部局で、この後約十年近く、彼は実務官僚として、森林の視察や保護活動、鉱山の監督や開発、溶鉱炉の設置運営、冶金設備の立案や金属試験などなど、なんとも幅広い各方面の作業に、ほんとうにエネルギッシュに活動します。
 彼は、その頃にはストックホルムに住居を構え、毎日の仕事に打ち込むかたわら、金属や鉱業をメインテーマとする自分の著書の準備を着々と進めました。その大著 「哲学・鉱物学論文集 (その第一巻 "自然の第一原理" については、彼の科学的思想の特徴の別項でも、少し触れてあります) が出版されたのは、彼が四十六歳の時、1734年のことでした。

 なお、余談ながら、最も活動的であったちょうどこの時期、エマニュエルには、いくつかの結婚話もあったようです。しかし、なぜかどれも成婚にまでは至らず、結局、生涯の独身を通すことになってしまうのです。彼が、ハンサムで風采に恵まれ、多くの魅力と活気にあふれ、しかも終生、おおむね人付き合いがよい社交家であったことから考えると、これは、どうにも理解できないことでもありました。
 ただ、そのヒントとなるかどうかはともかく、ここに、一人の女性との出会いの事実が、残されています。
 彼女は、ジッデンボルイ伯爵夫人のエリザベートという人だったといいます。エマニュエルは、日記などの中にも、女性関係の記録を残していますが、相手の名前などはぼやかされているため、この女性についても、いつ頃どれ程のかかわりをもったかの、くわしいことは分かっていません。しかし、二人の出会いは、おそらくスウェデンボルグの三十代初めだったらしいことが推測されており、さらにはっきりとしていることは、出会ったとき、エリザベートはすでに人妻だったということです。しかし、彼女の存在と、スウェデンボルグの独身との関連は、いまだに謎のままとされています。

 

(続く)

ここが詳細の最初です (「人類と霊界の占いのトップページ-スウェデンボルグ」へ戻ります) スウェデンボルグの生涯(2/4)-壮年期 へ進みます