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霊能の事例
霊能の事例
皆さま、抽象的なスウェデンボルグの思想のご説明よりは、彼の霊能の証拠となった具体的な事例の方が、はるかに興味深く思われることでしょうから、ここでは、文献から抜粋して、数例ご紹介いたします。
なお、とくに断り書きのない限り、その記述は、「巨人・スウェデンボルグ伝」によったものとなっております。
ストックホルムの火事の霊視
1759年7月のある土曜日の夕方、イギリスから帰国したばかりのスウェデンボルグは、ストックホルムから五百キロ近く離れたイェーテボリという町 (文献によっては、町がゴッテンバーグとなっているものもあります)
で、パーティに出席していました。
すると六時頃、急に不安げな青ざめた表情になって、ちょうど今、ストックホルムで大火が発生して、またたくまに燃え広がっている、と周りの人々に告げました。彼はなんとも落ち着かず、会場をうろうろしながら、火事がどの辺りまで燃え広がっているとか、知人の誰それの家はもう焼けてしまったとか、口走っていましたが、八時頃になると、すっかり安心した表情に変わり、火事は彼の家から三軒目まできたところで鎮火したから、と語ったのでした。
その話はすぐ広まり、翌日には、日曜日にもかかわらず、市長から火事のありさまについてわざわざ質問を受け、くわしく説明しなければならないほどでした。翌週の火曜日の朝になって、ストックホルムからの正式の使者がようやく到着して、報告を受けたところによれば、火事の実状はまさしく、スウェデンボルグが「見て」語った、その通りであったとのことです。
この出来事は、さらに十年ほどして、同時代のドイツの大哲学者カントの興味を大変に引きつけることとなり、カントは、ほかのいくつかの事例も含めて詳細に調査した結果、スウェデンボルグの霊視の事実を、完全に認めたと伝えられています。
ロシア皇帝の死の霊視
1762年のある日、スウェデンボルグは、アムステルダムでパーティに出席していましたが、席上、彼は急に「変に」なり、しばらくしてやっと我に返りました。
周りの皆が、「どうしたのか」とあまりにしつこく尋ねるので、彼は、たった今、ロシア皇帝ピョートル三世が牢獄の中で死んだのだ、と答えたのです。彼はついで、皇帝の死因についても触れ、それらをメモしておいてくれるように依頼しました。
その後の新聞によって報じられた皇帝の死は、スウェデンボルグの語ったとおりの状況であったといわれます。
スウェーデン女王が証人となった霊能力
1761年の晩秋、スウェデンボルグは、宮廷のレセプションに出席していました。
その席上、ユルリカ女王 (プロシアのフリードリヒ大王の妹で、とても聡明でしっかりした人物であったといいます。ただ、話題となった兄のフリードリヒが亡くなった当時、ちょうど、スウェーデンとプロシアは交戦状態にあったようです。)
は、スウェデンボルグに、噂のように、故人の誰とでも話をすることができるのか、と尋ねます。彼は、答えました。「すべての人とはできません。でもこの世にいた時に、私が知っていた人となら話せます。王族の人たちや、有名な英雄たち、それに大人物や学者など自分が直接知っていた人とか、彼らの業績や著作から私が知っている人とかなら、そのすべての人と話せます。(「巨人・スウェデンボルグ伝」から引用)」と。
そこで、女王は、軽い冗談のつもりで、もし自分の亡くなった兄に会うようなことがあったら、よろしく伝えて欲しい、と頼んだというのです。
一週間ほどした次のレセプションで、スウェデンボルグは、女王にだけということで、彼女の兄からの「伝言」をそっと耳打ちしました。しかし、それを聞いたとたん、女王は気絶せんばかりに驚いたそうです。その後、女王は、その事について誰に聞かれても、自分の兄以外にはけっして知らないはずのことをスウェデンボルグは伝えてきたのだ、と語るばかりで、あまり触れたがらなかったといいます。
やがて女王が亡くなってから、ある程度の真相が明らかになりました。それによると、かつての時期、プロシアはスウェーデンにとって敵国であったにもかかわらず、女王はごく秘密裏に、兄との間で手紙をかわし、互いに連絡を取り合っていたようなのです。しかし、妹からの最後の手紙にたいしては、フリードリヒは返事を書くことなく亡くなってしまったため、その時のお詫びと伝言を、スウェデンボルグを仲立ちとして、妹に送ってよこした、ということだったらしいのです。
紛失した領収書にまつわる霊能力
同じく1761年の初夏、オランダの駐スウェーデン大使が亡くなってからまもなくのこと、その未亡人から、スウェデンボルグはある相談を受けます。
それは、大使が生前購入した非常に高価な銀器の支払いが、いまだに滞っているという理由で、それを作ったという職人から、しつこく代金を請求されているというものでした。肝心な証拠となる領収書が見つからない上、その件を知っている夫はすでに亡くなっており、大変困っている、と未亡人は訴えるのです。そこで、スウェデンボルグは、霊界の故人に、その件について確認してみることを、約束しました。
三日後、彼は未亡人を訪ね、故人の霊の話として、代金は一年近くも前に支払い済みであること、領収書は、ほかの大切な書類と一緒に、大使の秘密の収納箱の中に入ったままであることを伝えます。
さっそく、スウェデンボルグともども、未亡人が指定されたところを探すと、彼女すらもいままで気づかなかった隠し場所の中から、言われたとおりの領収書が見つかった、ということです。
自らの死の日付の予告
スウェデンボルグは、1772年2月、つまり死の直前ですが、メソジスト派の宗教指導者ウェスレイにたいして、ロンドンの下宿から、突然このような手紙を送りました。
「霊感者スウェデンボルグ」からそのまま引用しますと、それは、このような文面でした。
いわく「あなたが私と話をしたいと強くお望みだということを私は霊の世界で知りました。私はあなたがお訪ね下さるなら大いに喜んでお会いしたいと思っています。」と。
ウェスレイは、ちょうどこの頃、ほんとうにスウェデンボルグに会いたいと思っていたところなので、びっくりし、また直ぐにでも会いたく思いましたが、あいにくイギリス国内へ説教の旅に出る手はずになっており、いまさら予定の変更ができないので、半年後にぜひお願いしたいと、書き送りました。
これにたいして、スウェデンボルグの返事には、このように書かれてあったのです。
いわく「その時では残念ながらお会いできません。なぜなら私は三月二十九日には死ぬことになっているからです。」と。彼が、まさしくその日に亡くなったことは、彼の生涯の晩年期の終わりで、すでにお話ししたとおりです。
なお、このエピソードとは別に、スウェデンボルグは、世話になっていた下宿屋の女中にも、自分の死の日付をあらかじめ教えてやっていたことが、死後、彼女の証言で明らかにされた、ということです。
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