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フリッツ・クライスラー
(1875~1962)
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=クライスラー小史/その生涯 の詳細の目次(リンク)=
修業の時代
修業の時代
1875年
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誕生
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音楽の町ウィーンで、幼年時代を過ごす |
クライスラーは、1875年2月2日、ウィーンで誕生しました。
父親はフロイトとも親交があった、いわゆる「赤ひげ先生」タイプの町医者で、アマチュア音楽家としては自宅で弦楽四重奏などをよく演奏し、その影響で、クライスラーは、四歳頃には文字より先に楽譜を読むことを覚え、ヴァイオリンをいじり始めるようになったそうです。
ちなみに、フリッツの弟のフーゴーも、チェリストとして活躍しています。なお、母親は、ヴァイオリンとチェロの区別もよく分からないといった、当時のごくふつうな家庭婦人でした。
また、彼が生まれた当時、ウィーンは音楽の都として、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトが活躍した時代の面影を、まだ随所に色濃く残しており、幼いクライスラー自身、ブラームスなどにも直接会ったことがあるようですし、そうした故郷の町の雰囲気そのものが、彼の音楽的感性の形成に、どれ程大きな影響を及ぼしたかは、計り知れないものがあったと思われます。
1882年
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七歳
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特例により、ウィーン音楽院の大学課程(通常は十四歳で入学)への直接入学を許可され、ヘルメスベルガーJr.にヴァイオリンを、ブルックナーに和声学を学ぶ |
クライスラーは、わずか十歳で金メダルを獲得して卒業しましたが、その間、学院を訪れたヨーアヒム、サラサーテ、ピアノのルビンシテインの演奏に直接触れ、それらの中から、練習による以上にはるかに多くのものを学んだ、と後年語っています。
そして彼は、この時期、どちらかというと、自分の楽器よりもピアノの練習の方に、より熱心だったようで、天賦の記憶力のお陰もあって、大半のヴァイオリン曲のピアノパートの暗譜を終え、ほかの生徒のための数多くの伴奏経験を通じて、自分独自のより好ましい表現法を会得するなど、演奏家としての実践的な修練を積んだといわれます。
1885年
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十歳
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パリ音楽院に入学し、マサールにヴァイオリンを、ドリーブに作曲を学ぶ |
マサールは、ベートーヴェンが有名なヴァイオリンソナタを捧げたクロイツェルの弟子で、技巧ではなく感性に訴える表現を重んじ、ヴィエニャフスキなどを育てたのですが、このヴィエニャフスキが愛好工夫し、さらにその弟子にあたるイザイへと伝えられた強いフランス式ヴィブラートの技法は、間接的に、マサールから、彼の最後の弟子であるクライスラーへも受け継がれました。
一方、ドリーブは、バレエ「コッペリア」の作曲の一部を、クライスラーに手伝わせたといいます。
こうして、音楽的成熟のための良き師に恵まれただけではなく、パリの町そのものも、たいそうクライスラーの気質にはかなったようで、彼は、二年間の楽しい学生生活を送った後、一等賞中の一等賞で、卒業しました。
1888~1889年
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十三~十四歳
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ピアニストのローゼンタールに伴われ、アメリカへ最初の演奏旅行を行う |
リストの弟子のローゼンタールは、当時ショパン弾きとして著名であり、依頼を受けたアメリカでの、彼の五十回ものコンサートにおける、プログラム上の「調整」役として、ヴァイオリンのクライスラーが抜擢されたのです。
助演者としての少年クライスラーは、父親から贈られて愛器の一つとなったグランチーノで、もちろん全体として、成功を納めることはできましたが、彼にたいする評価は、かならずしも好意的なものだけではなかったようです。
「フリッツ・クライスラー」から引用すれば、
いわく「少年は・・・無事に演奏し終えたが、(中略)しかし、とくに神童とか天才の名にはあたいしない。」と。
また、いわく「彼の演奏はまだ生硬で、しばしば音程を狂わせた」と。
ニューヨークでのあるオーケストラとの協演に対しては、いわく「(前略)第一印象はもっとも好ましいものであった。(中略)しかし、残念なことに音がきわめて小さい。(後略)」と。
一方、後年の彼の活躍を予知した批評では、
いわく「少年クライスラーはまだ学ぶべきことをいくぶん残している天才である。・・・私の見るところ、彼は大芸術家になる運命を背負っている。もちろん、今後とも努力をおこたらなければの話だが。」と。
ボストンデビューでメンデルスゾーンの協奏曲を弾いたさい、クライスラーが、二度までもE線を切るアクシデントに見舞われたというのは、かなり有名な逸話です。最初の第二楽章の場合は、A線のハイポジションで臨機に切り抜け、次の終楽章の場合には、やむなくコンサートマスターのヴァイオリンを借りて、そのまま演奏を果たした、といわれています。
(続く)
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