=クライスラー小史/その生涯 の詳細の目次(リンク)=

修業の時代

青雲の時代

飛翔の時代

失意の時代

円熟の時代

静謐の時代

失意の時代

 

1914~1916年

三十九~四十一歳

第一次世界大戦に従軍し、負傷した後、アメリカで演奏活動を行う

 1914年夏、クライスラーの祖国オーストリア=ハンガリア帝国は、ドイツと同盟して、ロシアに宣戦布告し、ここに、いわゆる第一次世界大戦が勃発したのです。
 予備将校であったクライスラーは、その芸術家としての業績にもかかわらず、ごく当然のこととして、直ちに、一人の陸軍中尉として、最前線に送られます。
 「フリッツ・クライスラー」から引用しますと、クライスラーは後年、このように語っています。
「それは型どおりの無情な召集令状でした。(中略)私は大きな風車の歯車か、巨大な物体の一原子にすぎなかったのです。」と。
また、彼が戦場に赴いた時の心情については、次のようにも述べています。
「宣戦布告の瞬間から、わが国ではすべての身分の上下が消滅しました。(中略)"なぜ芸術家が戦場に送られるのか?"(中略)そういう質問をする人は、国家への忠誠が価値あるものであるなどとは思ってもみないのです。私はオーストリア人です。開戦になったとたん、私はヴァイオリンのことなど、どうでもよくなり、そんなものを弾いたこともあったっけという心境になりました。」と。
 前線に到着してからわずか三週間ほどしたある夜、塹壕に立てこもっていた中隊は、ロシアのコサック騎兵隊の急襲を受け、この戦闘で、クライスラーも足を撃たれ馬に蹴り倒されて、気を失ってしまいます。
 彼はそのまま、四時間ほども戦場に放置されていましたが、戦闘のやんだ夜中になって、幸い、仲間の衛生兵に、まだ生きている状態で発見され、応急手当を受けました。その後二日ほど、仲間と行動を共にしたものの、足の痛みがひどくなったため、後方の野戦病院に送られたのです。しかし、クライスラーの所属する歩兵中隊は、直後に行われた敵軍との大激戦の末、壊滅してしまったといいます。
 一時は、クライスラーの戦死が報ぜられるなど、情報が混乱錯綜する中、しかし彼は、赤十字の従軍看護婦として働いていた妻のもとへ、びっこをひきながらではありましたが、ともかくも生きた姿で、戻ることができたのです。
 クライスラーは、傷痍軍人として、名誉の退役を認められ、1914年初冬、海を渡って、ニューヨークに当面の住まいを構えます。
  これは、アメリカが、妻ハリエットの母国であったことに加えて、まだ大戦に参戦しておらず、外交的に中立を保っていたから、だといいます。しかし、その国民感情は、すでに、ドイツとその同盟国に対して、もうけっして友好的とはいえないところにまで、悪化していました。
 それでも、最初のうち、ことクライスラーに関しては、誰もが好意的でした。彼は、戦死した音楽家たちのみなしごの生活の援助を、自ら申し出ていたのですが、その仕送りの金銭も稼がねばならず、積極的に演奏会を行い、それらはすべて成功を納めることができたのです。
 この辺りのことについて、「フリッツ・クライスラー」から引用しますと、
いわく「彼は収入が必要なのだ。彼自身の損失を補うためだけではなく、彼が引きとった四十三人の孤児たちをやしなうためにである。(中略)その大きい心は、この日の演奏に表れている・・つまりはこれこそが彼の成功の秘密なのだ。」と。
 また、戦争前後での、クライスラーの演奏の微妙な変化については、
「その音たちはある悲しみを背負っているかのようであり」ともいわれ、あるいは、「以前より音の暖かさやきらびやかさが影をひそめた半面、落ち着いた輝きが現れた。(中略)かくして彼の音楽は新しく生まれ変わったのである。」とも、評されています。
 1916年冬、いわば敵の「総帥」の一人、オーストリア皇帝が死去し、アメリカの時のマスコミは、ここぞとばかりに、彼の治世中の非道ぶりや民族への抑圧を、激しく非難したのですが、にもかかわらず、クライスラーは、自分の信念と良心にもとづいて、あるインタビューの中で、このように述べ、あえて亡き皇帝を賛美したのです。
「私は皇帝を知っていました。(中略)皇帝は子供に好かれる好々爺のような性格の持主で、国民に対してもそうでした。だれよりも農民たちがそのことをよく知っていて、彼らやほかの人々が寛大な皇帝に行なう陳情は、(中略)彼はたいへんな勤勉家で、ぜいたくな生活を好みませんでした。(「フリッツ・クライスラー」から引用)と。
 さしもの、反ドイツ的に高まった世論も、この擁護に対しては、反論攻撃することができなかったといいます。

 

1917~1922年

四十二~四十七歳

楽壇から閉め出された不遇の時期を乗り越え、カムバックする

 1917年春の、アメリカの対独宣戦布告を機に、こうした良好な状況は一変し、事態は深刻なものになりました。
 クライスラーは依然として、アメリカ大陸中を演奏旅行していましたが、都市によっては、敵国の演奏家の出演にたいする抗議運動が起こり、警官が出動要請される騒ぎになるところまで、出てきました。
 その上、クライスラーが善意で仕送っている個人的な金銭について、それがじつは武器弾薬購入の資金として、敵国オーストリアに送られるものである、との誹謗中傷を受けるに至り、ついに彼は、その年の冬、ステージを去る決心をします。新聞は次のように報じたのです。
いわく「クライスラー、演奏旅行を中止・・・アメリカの金銭を受け取ることを潔しとせず・・・八万五千ドルの契約を破棄。(「フリッツ・クライスラー」から引用)と。
 それから約二年の間、クライスラーは、たった二回の慈善演奏会以外、アメリカでの公の音楽活動を、まったくしていません。それどころか、ほんの一握りの人たちを除いて、古い友人たちからですら、無視され挨拶さえもされなかった、という有様でした。
 ハリエットは回想して、こう述べました。「私たちが隠遁してから終戦になるまでというもの、たくさんお友達が急に近眼になってしまいました。そうでなければ、私たちに気づかないふりをして横町にかくれてしまったものです。どちらにせよ、そういう人はアメリカ人といえるでしょうか!(「フリッツ・クライスラー」から引用)
 この頃のクライスラーにとって、唯一の慰めは、作曲家ジェイコビと共同で、オペレッタ「リンゴの花」を作曲することだけだったといいます。幸いこの曲は、後に、ブロードウェイを初め、アメリカ中で上演され、大当たりをとったそうです。
 さて、1918年冬、休戦協定が成立しましたが、クライスラーがアメリカの楽壇にカムバックしたのは、さらに一年後の1919年の秋、オーストリアとの和平が実現してからのこととなりました。
 もちろん、その演奏会は大成功であり、その後の各地での演奏会でも、以前と変わらぬ歓迎を受けましたが、一部の都市では、その後も長く、戦争の余波の抗議や嫌がらせが続き、ドイツ音楽の演奏を許可してもらえなかったり、ある時などは、演奏中に会場の電気を切られ、懐中電灯を頼りの伴奏でそのまま演奏を続けた、とのエピソードも残されています。
 そのような中、クライスラーは、今ではオーストリア共和国と名前の変わった、愛する祖国への帰国を果たし、1921年初夏、イギリスでもカムバックしています。
 ロンドンでの最初の演奏会では、手榴弾が投げつけられるかも知れないとの事前通報があり、極度の緊張をもって、ステージに上ったそうですが、結果は、信じられないほどの大成功で終わったのです。
 さらに、ロンドンでは、時の首相ジョージのパーティに招かれた際、以前アイルランドの街角で耳に留め、ヴァイオリン用に編曲していた「ロンドンデリーの歌」を、披露しました。ジョージは、その演奏にいたく感動し、イギリスとアイルランドの和平協定を促進したい、とのスピーチを述べたといわれます。
 なお、パリでのカムバックは、講和後すでに五年もたった、1924冬のことになりました。
 そして、それをもって、クライスラーにとっての「戦争」は、一応の終止符が打たれたのです。

 

(続く)

クライスラー小史(3/6)-飛翔の時代 へ戻ります クライスラー小史(5/6)-円熟の時代 へ進みます クライスラー小史/その生涯の詳細 の冒頭へ戻ります