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修業の時代

青雲の時代

飛翔の時代

失意の時代

円熟の時代

静謐の時代

円熟の時代

 

1923~1932年

四十八~五十七歳

日本を含めた世界各地に演奏旅行を行い、一方、ベルリンに定居を構える

 この時期には、また、地球上のあちこちを、演奏旅行で訪れています。彼が訪れた主要なところだけ数えても、東洋の中国・日本・朝鮮、南太平洋のハワイ・オーストラリア・ニュージーランドなどがあげられます。
 ただ、この間、クライスラーが唯一演奏におもむくことを拒絶したのは、ロシアだったそうです。
 かつて、頻繁に巡演を行ったロシア帝国はすでに崩壊して、ソヴィエト連邦と名を変えていましたが、提示された破格の出演料にもかかわらず、そしてまた、ロシアの古くからの知人にたいする、個人的な友好の気持ちが変わらなかったにもかかわらず、彼は、その気にはなれなかったといいます。
 クライスラー招聘の説得のために、わざわざ派遣された政府の高官は、ソヴィエト連邦では、旧ロシア時代以上に芸術を保護し、芸術家の生活が向上していることを、力説しました。しかし、次のような発言が、クライスラーの心を決定的に硬化させ、彼は、疲れていることを理由として、その話を辞退したのです。
 つまり、ロシアの文化の統制官は、こう述べたそうです。「芸術家にとっての唯一の規定はわれわれのイデオロギーに自らを適合させるということです。(中略)お出ましの節はメンデルスゾーンやチャイコフスキーを弾かないでいただきたい。つまり彼らはわれわれの価値基準と一致しないからです。(「フリッツ・クライスラー」から引用)
 しかしこの一方、イタリアでは、ムッソリーニの別荘で、彼のために、わざわざヴァイオリンを弾いています。
 というのも、ムッソリーニは、政治のためにクライスラーを利用するつもりはなく、ただ一人のアマチュアヴァイオリニストとして、クライスラーの演奏を渇望したからです。演奏の途中、このファシストの独裁者は、伴奏者であったラウハイゼンの譜めくりを、自らすすんでやってさえくれたそうです。
 ずいぶん後年になって、何かのインタビューで、クライスラーは、彼の友人のアインシュタインとムッソリーニでは、どちらがヴァイオリンの腕がよいのかと聞かれ、分からないけれども、一度同じコンテストの会場で二人を聴き比べてみたいものだ、と答えています。
 1923年初夏の、日本の演奏旅行でのエピソードも、興味深いものがいろいろあります。
 とくに、クライスラーは、来日直後、東京の帝国劇場で、ほとんど連日にわたる八回ものリサイタルを催したのですが、ラウハイゼンの述懐によると、耳の肥えた日本の聴衆のためにと、わざわざ予定曲目を変更して、八晩を、ソナタを中心とした、しかも、八組の違ったプログラム構成で、乗り切った、といいます。そして、このようなことは、ひとえに、クライスラーの抜群の記憶力のなせる、神業としか考えられないと、述べているのです。
 そのほか、滞在中かなり大きな地震(ちなみに、同年9月、例の関東大震災が起こっているので、その前触れだったのでしょう)に見舞われてびっくりした話、大正天皇からご紋章の菊の花のネクタイピンを贈られた話、宮城道雄の琴と吉田晴風の尺八の合奏から日本音楽のすばらしさに触れた話、西本願寺の唐門をくぐって"勅使の中庭"を拝観した話、今回の東洋旅行ではストラディヴァリウスが使われた話など、エピソードには事欠きません。
 クライスラーは、日本の聴衆が、とりわけドイツ音楽にたいする深い理解と反応を示すことに、演奏家としてことのほか感激し、リサイタルでは、自分が価値を認める曲のみを慎重に選び、しかもそれを心をこめて演奏した、との旅行記を、帰国後、ベルリンで寄稿しています。
 日本を離れる直前、新聞のインタビューに答えて、日本についての印象として、
「美しい場所をたくさん見ましたが、とりわけ京都の町がもっとも素敵でした。京都には古い日本の精神があり、過去と現在を感じとろうとする者を魅了する静けさがあります。この都市は日本の心です。(「フリッツ・クライスラー」から引用)とも、述べています。
 ところで、東洋旅行からベルリンのアパートに帰ると、まもなく、ハリエットは健康を害し、しばらく転地療養などをしなければならなくなります。
 それやこれやで、クライスラーは、そろそろ安住の我が家を持つ必要に迫られ、ベルリンの一角に、やっと念願の、「ついの住みか」を手に入れました。それは、1924年の秋頃のことでしたが、やがてナチスの台頭によって、1939年に永遠にベルリンを退去することになるまでの十五年間、そのすばらしい邸宅は、文字通り、安らぎと憩いの「ホーム」となったのです。

 

1933~1940年

五十八~六十五歳

ドイツを去り、フランス国籍を得、次いでニューヨークの市民権を得る

 1933年初頭、ナチスのヒットラーが政権を取ったときから、ドイツ国内は、ソヴィエト連邦と似たりよったりになっていきました。つまり、政治のイデオロギーが、徐々に、しかし確実に、あらゆる芸術活動を統制し始めたのです。
 もちろん、ベルリンに住まいがあったとはいえ、クライスラーはオーストリア国民であり、すぐさま露骨な制約を受けることはありませんでした。
 加えて、ナチスは、当初むしろ、クライスラーの人気を政治目的に利用しようと、フルトヴェングラーなどを通じて、積極的な支援を表明していたほどでした。しかし、これに対して、クライスラーは、自らの信条として、ドイツ国内での演奏活動を当面中止したい、と申しいれたのです。、
 まもなく、しっぺ返しがあり、クライスラーに関連したすべての楽曲の発売が禁止され、それと同時に、それらの曲がラジオを通じて流されることをも、完全に差し止めてしまいました。こうして、少なくともドイツにおいては、ナチスが崩壊する1945年まで、クライスラーの名前は、公にはいっさい、口にされなくなったのです。
 この間、クライスラーは、アメリカではいつも通りの巡演を行い、またロンドンでも、新進のルップを伴奏者として、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタの全曲録音などをこなしています。また、同じルップとのコンビでは、飛行船ツェッペリンで南アメリカに渡り、ブラジルを皮切りに、各地で演奏を行って、変わらぬ歓迎を受けました。
 しかし、ユダヤ系であるクライスラーにとって、ベルリンは最早、安住の地ではなくなりつつありました。1938年、彼は、南フランスに当座の居を移します。そして、その直後、祖国オーストリアは、ナチスドイツに併合されてしまい、今度はその属州となるに至ったのです。
 翌1939初夏、クライスラーは、フランス政府の好意により、正式に帰化してフランス国籍を取得することができました。
 さらに同年秋、アメリカでの演奏活動を目的として、ニューヨークの港に降り立ったのですが、途中、ヨーロッパからの避難民も入り混じっての、窮屈な相部屋の船旅であったといいます。
 それは、第二次世界大戦の開戦から、わずか三週間後のことであり、その後の生涯を通じ、クライスラーがヨーロッパの土を踏むことは、二度とありませんでした。
 クライスラーは、ニューヨークに住まいを構え、ベルリンから愛犬二匹も呼びよせて、ここに彼の家族が一つ屋根の下にそろい、結局この地が、彼の永住の地となりました。ただ、最終的に、「フランス人」クライスラーがアメリカ国籍を取得するのは、1943年初夏のことでした。

 

(続く)

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