=クライスラー小史/その生涯 の詳細の目次(リンク)=

修業の時代

青雲の時代

飛翔の時代

失意の時代

円熟の時代

静謐の時代

青雲の時代

 

1890~1894年

十五~十九歳

ウィーンで修道院系の高等学校に入学し、修了後、さらに大学の医学部に進学する

 アメリカから帰国後、父親の強いすすめにより、ヴァイオリンの習得の間になおざりにされていた学問と一般教養を、改めて身につけるために、高等学校に入学します。
 入学の準備のためと、さらに学校での二年間だけで、どうしても国家の資格試験に合格するレベルに達する必要があったため、この間、クライスラーは、父親を家庭教師がわりにして、猛勉強しました。
 資格試験にパスすると、兵役年齢までの期間をうめるため、今度は、進んで医学部に入学しました。その家庭環境から、彼がずっと医学に興味を抱いていたのは、むしろ当然のことで、医学生としての彼は、真面目に、二年間毎日ひたすら、知識の習得に精を出したといわれます。
 しかし、解剖にどうしてもなじめないなどの理由で、周りから見ても、彼の外科医としての将来は、けっして有望とは考えられておらず、最終的には、やがてみずから、医学への道を断念することになるのです。
 この合わせて五年の間、クライスラーは、学業に追われるあまり、とてもヴァイオリンの練習どころではなかったようで、たまに音楽会を聞きに出かけるくらいが、せいぜいでした。人前で弾くなどの機会を持つことはおろか、彼が、ヴァイオリンを「弾ける」ことに気づく仲間さえ、ほとんどいなかったといいます。

 

1895(~1896)年

二十(~二十一)歳

士官候補生として、オーストリア帝国陸軍の皇帝親衛隊に、配属される

 オーストリアの当時の青年の常として、二十歳になったクライスラーは、新兵としての一年間の教練に、志願参加します。
 しかし、それがかえって、クライスラーとヴァイオリンを再度結びつける、きっかけとなりました。というのも、アマチュア音楽家でもあった親衛隊長のオイゲン大公が、たまたま、幼いクライスラーの演奏を記憶しており、彼が中心となって、ごく仲間内での演奏会などで、折に触れて、クライスラーにヴァイオリンを弾かせたり、伴奏を頼んだりしたからです。
 なお、陸軍でのこの一年間が音楽家クライスラーに与えたもの、ということで、「フリッツ・クライスラー」には、次のような記述もあります。引用しますと、
「(前略)それはたしかに、巡演に明け暮れる演奏家としての来たるべき多忙な生活にたいする適応力を彼に与え、(後略)」た。つまり彼は、軍務の中で、野外生活を体験し、体操やスポーツをこなし、どのようなハードなスケジュールの演奏旅行にも耐えうる、根本的な体力を培った、ということなのです。
 こうして、比較的に快い軍隊生活を送った後、クライスラーは、当初の予定どおり、予備役の陸軍中尉の試験に合格し、彼の将来としては、この時点で、職業軍人、医者、音楽家などの、選択の可能性があったのです。

 

1896年

二十一歳

ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団の第二コンサートマスターのオーディションに落選し、改めてソリストへの道を歩み始める

 しかし、クライスラーは、ようやく、最初にして最大の、彼の特技である、ヴァイオリンで生きていく決意をします。
 その頃の彼は、あまり豊かではない父親の家計を、早急に支える必要に迫られており、約二ヶ月にわたって、みずから特訓した後、自信を持って、オーケストラヴァイオリニストを志願したのです。
 しかし結果は、ちょうど彼の審査に当たった、有名な弦楽四重奏団の創始者でもあるロゼーから、「初見の曲の演奏がよくない(「フリッツ・クライスラー」から引用)との理由で、拒絶されてしまいます。
 あてにしていた職がだめになったクライスラーは、とにかく少しでも収入を得るためには、もはや、ソリストとしての道しか残されてはいなかった、というのです。
 後年のクライスラーの大成から考えた場合、これはじつに、不思議で興味深い出来事なので、いろいろな人が、その解釈を試みています。以下に、各書からの引用をまじえて、その一端をご紹介してみましょう。
 「フリッツ・クライスラー」の中では、著者の意見として、
「ひとつには、この若いヴァイオリニストが大物になると感じ取った年長の芸術家の嫉妬が原因だと説明できよう。」と、述べられています。
また別人の解釈として、「(前略)自分たちの培ってきた伝統的な様式や厳格さにそぐわないものを嫌ったのです。したがって、個性は受け入れられず、むしろ伝統を侵すものとみなされたのです。」との意見も、紹介されています。
 その上で、同書では、クライスラーが外国での成功にも関わらず、長い間、故郷のウィーンでは、好感を持たれなかったという事実と、後年のクライスラーの言葉、「わたしは常にわが道を行きました。私を認めてくれる人もありましたし、私を拒絶する人もありました。幾人かの狭量な伝統主義者たちにとって、私は異端者でした」をあげて、たぶんその辺りが原因ではないかとの、一応の結論が出されています。
 また、フレッシュは、「ヴァイオリン演奏の技法」の中で、クライスラーのこの失敗に関連する箇所で、
「(前略)彼は、現代の特殊な表現欲求をいち早く予感し、それを満たした人である。彼はヴァイオリンでは驚くほどの早熟を示したにも拘らず、彼のヴァイオリニストとしての真の意義が比較的遅く認められ評価された原因はそういうところにある。(中略)彼の奏法は、三十年前は、当時の支配的な時好にはまだ適していなかった。(後略)」という、理由付けをしています。
 一方、「二十世紀の名ヴァイオリニスト」の著者は、フレッシュらの、こうした解釈にいくぶん疑問を投げかけ、
「(前略)彼が後年もときおり技術的手段をいかにおろそかに扱ったかを、また彼の表現がすべていかに強く官能的な色合いを帯びていたかを考えるならば、技術上の熟達を彼が過大に自己評価した結果、ある種のなげやりが、この若い男の内部に咲きそめてきた官能性に結びついて、生煮えに、未熟に、そして不完全に聞こえざるをえないある種の演奏法を生みだした(後略)」、その当然のなりゆきであろうと、想像しています。
 いずれにしても、クライスラーは、最初の挫折を味わい、その苦い経験こそが、結果的には、今われわれが知るクライスラーにまで磨き上げた、といえるのでしょう。
 なお、この時期(一説には十九歳の頃とも)、クライスラーは、ベートーヴェンの協奏曲のための、有名な二つのカデンツァを作曲した、と伝えられます。しかもその曲は、彼のごくプライベートなバンド仲間で、当時はチェロのパートを受け持っていた、作曲家シェーンベルクにも認められる程の、高いレベルのものだったのです。

 

(1896~)1898年

(二十一~)二十三歳

トルコやロシアに演奏旅行を行い、また、ウィーンでの芸術家のサロンを通じて、多様で有益な経験を積む

 こうして、一匹狼となったクライスラーは、幸い、一部のパトロンの援助を受けることができたせいで、地中海巡遊に誘われ、途中、トルコ皇帝の御前で演奏をする、というハプニングもあって、この時のご褒美の金貨の袋を、自慢げに自宅に持ち帰ったといいます。
 次いで、ロシアへの演奏旅行の企画にも応募しており、この際も、ロシア皇太子の目に留まるなどの幸運に恵まれて、紹介状を手に、各地を巡演することができました。
 ある町で、チャイコフスキーの協奏曲を演奏した後に、作曲者の直接の友人から、チャイコフスキーが終楽章の曲想の展開に苦労した挙げ句、「とうとう彼はあきらめて、この協奏曲を尻切れトンボにしてしまった(「フリッツ・クライスラー」から引用)という興味深いいきさつなど、聞くことができたそうです。
 これらの演奏旅行を通じて、クライスラーは、耳の肥えた一部の芸術ファンだけではなく、幅広い聴衆層にもアピールできるヴァイオリン曲、の種類が乏しいことに気付き、そのレパートリーを少しでも増やそうと、みずからの演奏用の小品を、少しずつ、作曲ないし編曲することを始めるのです。
 やがて彼の活躍とともに皆に愛好され、当初は、十八世紀~十九世紀初期の作曲者の手になると信じられていたこれらの小品が、じつはクライスラーのオリジナルだと分かって、大騒ぎになるのは、それから四十年近くもたった、1935年のことになるのでした。
 一方、これらの外国巡業の合間に、クライスラーは、ほかならぬ故郷の町ウィーンでも、芸術家としての成熟に向けて、いろいろな貴重な経験を積みます。
 それは、一つには、さまざまなタイプの若い仲間との交流、を通じて得たものでした。奇妙な名前のついたカフェをたまり場とする、この芸術家のサロンには、ほかに、作家のホーフマンスタールやシュニッツラー、作曲家のホイベルガーやヴォルフなどがたむろしており、かれらは分野を超えて、たがいに批評しあったり、助けあったりしたそうです。
 もう一つのサロンは、当時、ブラームスが名誉会長として運営していたもので、そこでの体験は、クライスラーにとって、彼の演奏活動にたいする、より直接的な影響を与えるものでした。
 ブラームスは、批評を求めて送られてくる、ほかの作曲家たちの楽曲を、ここで試しに弾かせてみたりしていたのですが、彼自身の作曲途中の室内楽の試演が行われることもあり、その際ブラームスが、演奏者の感想を聞きながら、部分的な修正を加える場面もあったそうです。
 クライスラーも、幾度となく、サロンでの四重奏団のメンバーに加えられ、大音楽家ブラームスのために演奏するということで、若い心を感激でいっぱいにしていた、と後年語っています。
 さらに、クライスラーに感銘を与えたのは、ブラームスの親友でもあるヨーアヒムの弦楽四重奏の演奏を、ごく目の当たりにできたことでした。また、ヨーアヒムとブラームスの二人が、シューマン作曲のヴァイオリンのための幻想曲について議論をしているその場に、たまたま同席していたことなども、長く記憶に残ったといいます。
 「フリッツ・クライスラー」から引用すれば、ヨーアヒムについて、クライスラーはこう述べました。
 「ヨーアヒムは私の人生にもっとも大きな影響を与えた人物のひとりでした。(中略)しかしながら、私のヴァイオリニストの理想像はヨーゼフ・ヨーアヒムではなく、ウジェーヌ・イザイだったのです。」と。
 こうした多方面の活動のはざま、1898年の初め、クライスラーは、リヒター指揮によるウィーンフィルハーモニーと、ブルッフの協奏曲を協演し、ようやく、ウィーンでの再デビューを行うことができました。それは、幼いクライスラーが、将来を期待されつつアメリカ演奏旅行を行ってから、じつに、十年近く後のことになるのでした。

 

(続く)

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