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ノストラダムス
(1503~1566)
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=ノストラダムスの詳細の目次(リンク)=
その生涯
その生涯
ここではまず、彼の生涯の足どりを、前半生と後半生に分け、ごくかいつまんでご紹介しましょう。
なお、内容はおおむね、後述の参考文献の「大予言者ノストラダムスの謎」の記述によっております。ここに、その出典を明らかにいたしますとともに、当該文献に深く感謝申しあげます。
前半生
ノストラダムスは、1503年12月、南フランスプロヴァンス地方のサン・レミで生まれました。
本名、ミシェル・ド・ノートルダム。
彼の家系は、ユダヤ人ではありましたが、少なくとも祖父の代までに、キリスト教に改宗しています。ミシェル自身も、ちょうどおりからの宗教改革の混乱の中にあっても、終生、誠実なクリスチャンとしての枠をふみ外れることはありませんでした。
父は、公証人。父方の祖父は、商人であり、王室ゆかりの医師でもありました。母方の曾祖父は、王室の占星術師・医師で、幼いミシェルはこの人物から多大の影響を受け、とくに、天文・薬学・化学などにたいする十分な素養を得たとされます。
最初、ミシェルは、故郷の近くのアヴィニヨンの大学で、主として法律関係を学びます。
しかし、その頃の彼は、すでに天体運行や自然現象に関する驚くほど広い知識を持っており、「若き天文学者」と呼ばれるほどでありました。
つづいて、当時の超難関、モンペリエの医学部に進学し、ペストの研究に没頭しています。
二十二歳になった頃、通常課程の修了と共に、ミシェルは、ペスト治療の放浪の旅に出ます。
それはほぼ四年間ほども続き、その独特の消毒技術などで、この疫病の蔓延防止に多大の成果をあげたといわれます。
またこの間、各地のユダヤ人から、多くの秘法 (いわゆる錬金術などのカバラの秘儀だといいますが、詳細は分かりません) の伝授を受けたとのことです。
その後、彼はふたたび、モンペリエに戻り、博士号取得のための、さらなる勉学に励むことになります。たまたまこの時期、同じ学部に、のちにフランス文壇にその名を馳せることになるフランソワ・ラブレーが在籍しており、二人はおそらくどこかで接点を持ったことであろうと、後世の歴史家は想像しています。
三十歳間近、医学博士になったミシェルは、すぐまた、西へと旅に出ます。
医術をたよりに、オリジナルの薬品や化粧品の調合と販売をしながらの、その日暮らしのきびしい道中でしたが、その旅行の目的は、当時のフランスきっての大哲学者ジュール・セザール・スカリジェからの招待によるものであった、ともされています。
はっきりしているのは、この時期、彼がそのスカリジェと面識を持ったということと、その縁もあって、アジャンという町で最初の結婚をしたということです。
四年間にわたる結婚生活は幸せで、二人の子供にも恵まれますが、突然、ペストが彼の家族をすべて奪い取っていってしまいます。さらに追い打ちをかけるように、「ユダヤ人」ミシェルに、宗教上の異端者の嫌疑がかけられ、彼は、身の危険を避けるためにアジャンを逃れでて、三度目の放浪の旅に出たのです。
それは、彼が三十代半ばの1539年頃のことであったとされます。しかし、その放浪の旅は、じつに、八年の長きに及ぶことになったのでした。
この旅で、ミシェルは、フランス国内ばかりではなく、遠くドイツ辺りもさすらったといわれますが、その足跡のたしかなことは明らかではありません。
この頃の伝説として、有名な「フローランヴィルでの料理の予言」が残されています。
これは、フローランヴィルのある領主が、晩餐の料理用としていつも白と黒の二匹の豚を飼育していたのですが、客として立ち寄ったミシェルが、今晩は黒い豚が皿に乗せられることになるでしょうと占ったのにたいして、その裏をかくつもりで、白い方を料理するよう、わざわざ料理人に命じておいたのです。ところが串焼きにする間際になって、ちょっと目を離したすきに、殺した白豚の肉を狼がすっかりさらっていってしまい、やむなく、料理人は、唯一残された黒豚の方を改めて料理して出した、というものです。
このいい伝えが、後年の彼の名声からでっち上げられたものであるとしても、この頃ミシェルがすでに、医師として以外に、占い師としての天分を発揮し始めており、さらにはそれなりの評判になりつつあった、ということを伺わせる資料だとも考えられています。
また、彼は、このフローランヴィルのすぐ近くのオルヴァルの修道院にも、しばらく逗留したとされ、そこでは、僧院の図書館の貴重な文献、なかんづく、数多くの予言書などに触れたであろうことが、想像されます。
ちなみに、後にこの修道院では、あのナポレオンも眼にしたとされる、1542年の日付のある、天文学博士オリヴァリウスなる人物の「予言の書」が、後に発見されました。
その小冊子には、ナポレオン自身の出現からずっと先の出来事までが語られており、まことに奇妙な偶然の一致と言うべきか、ノストラダムスが後年出版した予言集と、内容や文体において、少なからざる共通点を持っている、とのことなのです。
これはいったい、どう解釈すべきことなのでしょうか。
あるいは、ノストラダムスは、すでに、この長い放浪の旅のいつの頃からか、時々、テンカンに似た例のトランス状態に入り、そこで数々の霊視を体験し、それを短く表現してメモするようになっており、それを、とくに公開の目的ではなく、修道院にたわむれに寄贈したものでしょうか。
それともあるいは、すでに存在した先人の予言者の事績に触発され、さらに彼独自の工夫を加えて、大きく花開かせたというべきものなのでしょうか。
しかし、今も、その結論は出てはいません。
それはともかく、一方、彼のこの放浪の主目的は、あくまで巡回医師としてのペストの撲滅にあったわけで、要請があれば、彼はどこへでも出かけていきました。しかも、その至る所で、彼はペストに打ち勝ち、あたかも救世主のように人々に感謝されながら、その地を後にするのでした。
しかし、1547年、いまや四十四歳にたっしたミシェルは、そのような町の一つ、プロヴァンス地方のサロンに定住する決意をします。それは、ひとえに、年上の未亡人であった、アンヌ・ポンサールと結婚するためでした。
(続く)
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