=ノストラダムスの詳細の目次(リンク)=その生涯諸世紀の特徴予言の事例その生涯(続き)後半生ミシェルの新居は、サロンの町を見下ろす小高いところにあったらしく、建物の最上階には、星の運行を観測できるようにと、展望所も設備されていたといいます。 事実、ミシェルの占いの評判は、すでに、医師の名声に匹敵するほど高くなっており、彼の家族のおもな収入源は、むしろ、天文愛好家 (つまり占星術師のことですが、当時の社会情勢から、このようにあいまいに表現されていたようです) のホロスコープの作成にたいして支払われる、天文学研究費なのでした。 プライベートな占いの依頼が引きも切らなかったのに加えて、さらに彼は、1550年からは、出版物としてのいわゆる「暦」なるものへも、手を広げています。 しかし、暦には、独自の注目すべき工夫もあり、それは、各月毎に四行詩
(予言) が配置されて顔をのぞかせていることと、ここで初めて、著者としての 「ノストラダムス」 の名前が使用されていることでした。 ところで一方、薬剤師 (医師) としての彼は、媚薬の類を販売してみたり、女性に向けての 「美顔術」 書の発行を行い、さらには、おいしいジャムの作り方の料理書までを著しています。
ノストラダムスが、いつ、予言の四行詩のスタイルを完成させたかは、もちろん不明ですが、少なくともこの頃には、相当数の作品が、手元にたまっていたことは確かでしょう。 ただ、彼は、予言の内容にたいする確信はゆるぎないものではありましたが、それを公にすることを、長くためらっていたようです。 出版のこの時期は、当時の世相としては、比較的に穏やかな頃であったともいわれ、また、予言の書物も、彼以前にも数点出まわっており、彼もそれにならおうとする気持ちだったのかも知れません。もちろん、量的にも、質的にも、ノストラダムスの予言は、圧倒的なものではあったでしょうが。
1556年夏、ノストラダムスは、彼の評判を耳にした、フランス王アンリ二世およびその王妃カトリーヌ・ド・メディシスから、会見を申し込まれます。 彼は、持病の痛風に悩まされながらも、パリで王と王妃に謁見し、次いで、彼らの王子たちに会うために、ブロアの城におもむいたのです。 当時、カトリーヌは、占星術に夢中で、その影響もあり、パリには三万人の魔術師がいるとさえ言われる状態でした。 もう一つの依頼によって行った、四人の王子にたいする予言も、やはり、ぞっとするようなものであったといえます。というのも、四人はすべて、フランスの王位につくという内容だったからで、それはつまり、ほかの王子の死を暗示するものだったからです。 しかし不幸なことに、ノストラダムスのこの予言は、王妃の期待にもかかわらず、四人目の王子に関しては、当たらなかったのです。つまり、彼は王位につくべきわずか数年前に、死亡してしまいました。 なお、これらの予言の後、ノストラダムスは、早々にパリを離れました。それは、さる高貴な女性の忠告によるものであったといいます。つまり、王家の信頼とはまた別に、予言者仲間の、ノストラダムスにたいするある種の陰謀が、進行していたからです。
こうして、ノストラダムスは、名声と誹謗中傷を、同時に受けていました。 とくに、非難の方は次第に激しさを増し、彼は、王家の権力により、身の安全を守られるありさまでした。 くしくも、「手紙」 の差し出し日付からちょうど一年後
(正確には、一年と三日後ですが)、アンリ二世は、予言通りの死をとげます。
1564年秋、王家の次男で即位間もないシャルル九世と、今はその摂政となった母カトリーヌとは、地方巡幸の途上、サロンにノストラダムスを表敬訪問しています。 国王の擁護はなお彼の上にあり、人々もこの後、町の誉れでもある老いた予言者を、前のような苦境におとしいれる振る舞いは、もはやしなかったそうです。 なお、この折のこととして、たまたまこの訪問の一行の中に、王家の親類でもあった十一歳のアンリ・ド・ナヴァールが加わっていたのですが、密かに彼の将来を占って欲しいという依頼を受けたノストラダムスは、この少年がいずれフランス国王になるであろうと、明言したといわれます。そして事実、この人物は、アンリ三世の暗殺の結果、次にアンリ四世として即位し、あのブールボン王朝の始祖となったのです。
世情が穏やかであったように、最晩年のノストラダムスの生活も、静けさに包まれた平和なものでした。 しかし彼は、持病の痛風に加えて、肝硬変もわずらっていたようで、やがて1566年の初夏になると、急に病状が悪化していくのが自覚されました。そこで、6月なかば、遺産の分配を心のこりなくすませ、さらに最も大切な予言の原本や手紙については、とくに長男セザールを指名して、後事をたくし終えます。 こうして、ノストラダムスは、1566年7月2日未明、誰にも最期をみとられることなく、ひっそりとこの世を去りました。その朝、夜が明けて彼の部屋に入った家族は、まだ暖かさの残る大予言者のなきがらに気づきます。それはまさに、彼の予言どおりに、「寝床と腰掛けのそば」に残されてあったと伝えられます。 彼は、生前の名声に恥じない立派な葬式で、人々に旅立ちを見送ってもらうことができました。しかし、それ以上に故人にとって幸せであったのは、二人の良き後継者に恵まれたということです。
参考文献(外部リンク):
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