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その生涯

諸世紀の特徴

予言の事例

その生涯(続き)

後半生

ミシェルの新居は、サロンの町を見下ろす小高いところにあったらしく、建物の最上階には、星の運行を観測できるようにと、展望所も設備されていたといいます。

 事実、ミシェルの占いの評判は、すでに、医師の名声に匹敵するほど高くなっており、彼の家族のおもな収入源は、むしろ、天文愛好家 (つまり占星術師のことですが、当時の社会情勢から、このようにあいまいに表現されていたようです) のホロスコープの作成にたいして支払われる、天文学研究費なのでした。

 プライベートな占いの依頼が引きも切らなかったのに加えて、さらに彼は、1550年からは、出版物としてのいわゆる「暦」なるものへも、手を広げています。
 この暦は、日本でいえば神社などから刊行されている、季節ごとの日常生活の注意や月の運勢などが盛りこまれた、一年替わりのふつうのカレンダーで、彼は、死の1566年まで、継続的にこの仕事を行っています。
 当時すでに各種のものが流布していたにもかかわらず、わざわざ新たに参入した彼にとっては、収入上の利益が、大きな魅力であったようです。というのも、彼は、この再婚では、長男のセザールを初めとして、やがて妻子あわせて七名の大家族を養わなければならなかったからです。

 しかし、暦には、独自の注目すべき工夫もあり、それは、各月毎に四行詩 (予言) が配置されて顔をのぞかせていることと、ここで初めて、著者としての 「ノストラダムス」 の名前が使用されていることでした。
 ノストラダムスは、本名ノートルダムのラテン語化ではありますが、さらに別な説として、聖母マリア ("damus nostra"ダムス ノストラ。ただし、何語なのかを含めて、詳細は私にはよく分かりません) の配列をわざと転置したものである、ともいいます。
 さて、この暦は人気を呼び、彼に期待した収入をもたらすとともに、この成功が、後の予言集の出版につながってもいくのです。

 ところで一方、薬剤師 (医師) としての彼は、媚薬の類を販売してみたり、女性に向けての 「美顔術」 書の発行を行い、さらには、おいしいジャムの作り方の料理書までを著しています。

 

ノストラダムスが、いつ、予言の四行詩のスタイルを完成させたかは、もちろん不明ですが、少なくともこの頃には、相当数の作品が、手元にたまっていたことは確かでしょう。

 ただ、彼は、予言の内容にたいする確信はゆるぎないものではありましたが、それを公にすることを、長くためらっていたようです。
 しかし、最終的に彼は決断し、1555年5月、三百五十あまりの詩をまとめた、彼の最初の予言集が、「諸世紀」 として世に出ます。彼は、長男のセザールにあてた手紙の形式で、序文を書き、そこで、予言を公表する意味や予言の範囲などを、あれこれ細かく弁明ないし説明をしています。

 出版のこの時期は、当時の世相としては、比較的に穏やかな頃であったともいわれ、また、予言の書物も、彼以前にも数点出まわっており、彼もそれにならおうとする気持ちだったのかも知れません。もちろん、量的にも、質的にも、ノストラダムスの予言は、圧倒的なものではあったでしょうが。
 そして、ノストラダムスの書物は大成功し、後に新たな予言を加えて、改版されていくのです。
 ちなみに、この頃、ノストラダムスを含めて、少なくとも三人のれっきとした人物が、十八世紀最後の十年間における大事件、つまりフランス革命とよばれた出来事を、しかも別々に、予言していたといわれます。

 

1556年夏、ノストラダムスは、彼の評判を耳にした、フランス王アンリ二世およびその王妃カトリーヌ・ド・メディシスから、会見を申し込まれます。

 彼は、持病の痛風に悩まされながらも、パリで王と王妃に謁見し、次いで、彼らの王子たちに会うために、ブロアの城におもむいたのです。
 会見の目的は二つありました。

 当時、カトリーヌは、占星術に夢中で、その影響もあり、パリには三万人の魔術師がいるとさえ言われる状態でした。
  その王妃の側近に、リュック・ゴーリックというイタリア人の有名な占星術師がいたのですが、彼が、王の命運について、「四十一歳で、傷がもとで盲目になり、ひょっとして死ぬ可能性があること」 と 「決闘に注意するように」 という予言をしていたのです。まず、王妃は、その真偽を、ノストラダムスに確認したかったのだといわれます。
  ノストラダムスが、直接にどのように回答したかは、伝えられてはいません。しかし、彼がもし占星術によって再度占ったとしても、すでに霊視されていた 「諸世紀」 の詩とほぼ同じ内容を伝えたであろうことは、想像に難くないことです。少なくとも、この件に関して、ノストラダムスが誤ったという伝承はないのですから。
  このてんまつについては、後ほど、予言の事例の別項で、もう少し付け加えてご紹介してみましょう。

 もう一つの依頼によって行った、四人の王子にたいする予言も、やはり、ぞっとするようなものであったといえます。というのも、四人はすべて、フランスの王位につくという内容だったからで、それはつまり、ほかの王子の死を暗示するものだったからです。
 ただ、この予言が、この時点で王妃の感情を害することはありませんでした。なぜなら、子供の誰が王位を継承しようとも、それ自体は喜ばしいことであり、またフランス王家の末永い繁栄を意味するものだったからです。

 しかし不幸なことに、ノストラダムスのこの予言は、王妃の期待にもかかわらず、四人目の王子に関しては、当たらなかったのです。つまり、彼は王位につくべきわずか数年前に、死亡してしまいました。
 ところが、残りの三人は、この予言通りになりました。アンリ二世の事故死を受けて即位した長男は夭折し、次いで即位した次男も若くして病死 (一説には、毒殺されたともいいます) し、結局三男が王位につくのです。しかし、そのアンリ三世が、即位後十五年目に暗殺されたことにより、王位を継ぐべき四男を亡くしていた王妃のヴァロア家は、断絶するのです。もちろんそれは、ノストラダムスの死後、二十年もたった頃のことになるのですが。

 なお、これらの予言の後、ノストラダムスは、早々にパリを離れました。それは、さる高貴な女性の忠告によるものであったといいます。つまり、王家の信頼とはまた別に、予言者仲間の、ノストラダムスにたいするある種の陰謀が、進行していたからです。

 

こうして、ノストラダムスは、名声と誹謗中傷を、同時に受けていました。

 とくに、非難の方は次第に激しさを増し、彼は、王家の権力により、身の安全を守られるありさまでした。
 こうした中、彼自身は相変わらず未来を霊視し続け、1558年には、「アンリ二世への手紙」 の形式の序文を持つ、いわゆる 「諸世紀」完全版 (現存のものといわれます) を出版します。この序文には、当時の彼の立場の説明と王にたいする忠誠の気持ちに加えて、詩の本文ではあまりに漠然としている各種の重要な予言が、明示されてもいます。

 くしくも、「手紙」 の差し出し日付からちょうど一年後 (正確には、一年と三日後ですが)、アンリ二世は、予言通りの死をとげます。
 この予言の、あまりの的中ぶりにたいして動揺した人々、なかんづくほかの予言者の中には、民衆をそそのかして、ノストラダムスの人形を火あぶりにする者まで現れました。
 しかし、それにもかかわらず、王妃の厚い庇護は変わらず、ノストラダムスがこの出来事がもとで法的な処罰を受けることは、ありませんでした。そしてそれは、アンリ二世の後を継いだ長男のフランソワ二世が、翌1560年12月に、急病で死去したときにも、同様だったのです。
 ノストラダムスは、国王の死を、「諸世紀」 の十章の39で、遠回しに予言しただけでなく、じつは、1560年の 「暦」 の 「12月の予言」 においても、さらに明瞭に予言していたといわれています。

 

1564年秋、王家の次男で即位間もないシャルル九世と、今はその摂政となった母カトリーヌとは、地方巡幸の途上、サロンにノストラダムスを表敬訪問しています。

 国王の擁護はなお彼の上にあり、人々もこの後、町の誉れでもある老いた予言者を、前のような苦境におとしいれる振る舞いは、もはやしなかったそうです。

 なお、この折のこととして、たまたまこの訪問の一行の中に、王家の親類でもあった十一歳のアンリ・ド・ナヴァールが加わっていたのですが、密かに彼の将来を占って欲しいという依頼を受けたノストラダムスは、この少年がいずれフランス国王になるであろうと、明言したといわれます。そして事実、この人物は、アンリ三世の暗殺の結果、次にアンリ四世として即位し、あのブールボン王朝の始祖となったのです。
 また、ノストラダムスが、自分の死期とそのありさまに関する有名な四行詩を書いたのは、やはりこの一連の王家との会見の頃であったらしいといわれます。ただし、この詩は 「諸世紀」 にはなく、彼の死後まとめられた、予兆集なる文献に納められたとのことです。

 

世情が穏やかであったように、最晩年のノストラダムスの生活も、静けさに包まれた平和なものでした。

 しかし彼は、持病の痛風に加えて、肝硬変もわずらっていたようで、やがて1566年の初夏になると、急に病状が悪化していくのが自覚されました。そこで、6月なかば、遺産の分配を心のこりなくすませ、さらに最も大切な予言の原本や手紙については、とくに長男セザールを指名して、後事をたくし終えます。

 こうして、ノストラダムスは、1566年7月2日未明、誰にも最期をみとられることなく、ひっそりとこの世を去りました。その朝、夜が明けて彼の部屋に入った家族は、まだ暖かさの残る大予言者のなきがらに気づきます。それはまさに、彼の予言どおりに、「寝床と腰掛けのそば」に残されてあったと伝えられます。

 彼は、生前の名声に恥じない立派な葬式で、人々に旅立ちを見送ってもらうことができました。しかし、それ以上に故人にとって幸せであったのは、二人の良き後継者に恵まれたということです。
 一人は、モンペリエの医学部を卒業したジャン・エイム・ド・シャヴィニイで、予言者の弟子でもあった彼は、後に、ノストラダムスの予言の注釈と擁護のために、大著を記述し、あのアンリ四世に捧げました。フランスにおけるノストラダムスの高い評価は、そのことと無縁ではなかったのです。
 また、もう一人は、ほかならぬ長男のセザールで、彼も成長の後、アンリ四世の治下、歴史家・詩人・画家として名をなし、父親を初め先祖の事績をまとめて、広く世に知らしめたのです。

 

参考文献(外部リンク):

書名 著者/訳者 出版社/出版年次
大予言者
ノストラダムスの謎
ミシェル・クロード・
トゥシャール著
千葉茂隆訳
大陸書房
(リンクなし?)
1989年

 

 

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