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その生涯

リーディングの特徴

リーディングの事例

その生涯(続き)

後期

その頃、ケイシーの心の中に、ある一つの夢が、徐々にふくらみ始めていました。

 それは、バージニア州のバージニアビーチに自分の病院を作って、病気で悩む人々を治療し、また、学問的に霊能の研究もやりたい、というものでした。

 たまたま1919年に、テキサスの石油開発のためのリーディングをして欲しいとの、いわゆる儲け話の依頼を受けたのがきっかけとなり、病院建設資金を稼ぐために、カーンほかが投資して、テキサス・ケイシー石油会社なるものが設立されました。
 そのため彼は、家族をセルマに置いたまま、それから四年近く、テキサスで不毛の努力を続けることになりました。なぜなら、油井の発見につながる満足のいく情報はほとんど得られず、まとまった金を稼ぐことはおろか、社長としての給料すら受け取れないありさまだったからです。
 ところが一方、その同じテキサスで、乾期の最中に雨が降る日時をぴたりとあてて不思議がられたりしましたし、そのほか、農場や牧場の井戸の水脈の予想も、けっして外れることがありませんでした。また、アメリカ各地でおこなった慈善的なリーディングでも、それまで通りに、優秀な成果をあげることができました。
 結局、悪戦苦闘のあげく、詐欺師に引っかかりそうになるにおよび、ついにケイシーは石油事業から撤退し、病院の夢をあきらめて、また最初の、一介の写真家兼心霊治療師に戻る決心をしたのです。たとえ慈善病院を造るためでも、リーディングをお金儲けのために使ってはならないことを、いまさらながら骨身に知らされた末の、つらい決断でした。

 しかし、セルマへ戻るとすぐに、ケイシーは、またとない速記者のグラディス・デイビスを発見することになります。
 それは、1923年9月23日、ケイシー四十六歳の時のことであった、と明記されています。彼女は、それ以後、優秀な速記者として活躍したばかりではなく、じつの娘同様にケイシーの家族にも溶けこみ、さらにケイシーの没後も関連の団体に籍をおいて、文字通り、終生をケイシーに捧げたのです。
 その出会いに前後して、ケイシーは、実業家のアーサー・ラマースの誘いを受け、新たに心霊研究協会なるものを立ち上げるため、家族ともども、今度はオハイオ州のデイトンに引っ越すことになりました。

 

ラマースとのこの出会いが、じつはケイシーに大きな転機となり、やがて、ライフリーディングと呼ばれる新しい手法の誕生に、直結することになったのです。

 「エドガー・ケイシー奇跡の生涯」から引用しますと、1923年10月、デイトンで行われたラマースのリーディングでは、無意識下のケイシーにたいして、こんな質問が投げかけられたといいます。たとえば、「魂とは何で、どこから来るのか?」「魂は滅びることがあるのか?」「霊界に移り住んだ人と交信することは可能か?」などなど。
 ここでくわしくその内容をご紹介することはできませんが、それらのすべてにたいするケイシーの回答は、きわめて明快なものでした。要するに、不滅の魂がある、と断言したのです。
 また、占星術に興味を持つラマースは、ホロスコープについての質問もしてきました。前にも少し触れましたこの問題は、この時のやりとりからまとめると、一般的にこのようになるようです。
いわく「ホロスコープは、惑星の配置が地球や人間におよぼす影響を示しています。(中略)惑星の配置を見れば所定の人生の流れが人間の意志とは無関係にわかるという点で、占星術も役には立つそうです。だから、占星術もまあ精密な科学と言ってもかまいませんが、それでもなお、人の心や意志は占星術の影響を阻止できるでしょう。創造主の掟も故意に破りかねないのと同じように、それこそ人には意志があるのです。ご存知のとおり、人は自由意志を持つ存在です。すべての掟に従いながらも、それでも掟を破りかねないのです。」と。

 さらに、驚くべきことに、ラマースのリーディングを繰りかえす内、ラマースが前世のある時に僧(修道士)であったという情報と、しかもその過去生が今生に影響を及ぼしているという事実が、新たに提示されました。
 これは、「転生」の事実を、初めて具体的に明らかにしたものにほかならず、それをめぐって、ひとしきり、グループ内で議論が沸騰したというのは、当然のことだったでしょう。ケイシーはその後、自分自身はもとより、家族や知人の一人一人について、リーディングから詳細な過去生のデータを集めて、裏付けを取るべく努力を始めたようです。
 私は、キリスト教はまったくの門外漢で分かりませんが、東洋の仏教などの基本的な考え方の一つとされる輪廻転生は、キリスト教の教えとは、じつは相容れないものと考えられているのだそうです。
 したがって、ずっと敬虔なクリスチャンであったケイシーは、自分の伝えるメッセージと、キリスト教義との大きな矛盾で悩んだといわれます。しかし、数多くのリーディングの一貫性から判断し、また、聖書の記述の中に転生を否定する部分がどこにもないことを論拠として、最終的には、転生の実在を信ずる立場をとるに至ったのです。

 さて、ライフリーディングの分野で大きな収穫があったにもかかわらず、また、フィジカルリーディングの依頼が順調であったにもかかわらず、やがていつの間にか、心霊研究協会の組織化は立ち消えになります。
 それどころか、パトロンのラマースが手を引いたこともあって、次の年の秋口にかけて、治療師としてのケイシーの忙しさに反比例するかのように、家計はますます貧窮していきました。
 そんな中、次にケイシーの救世主となったのは、ニューヨークで株式仲買会社に勤める、モートン・ブルーメンタールでした。彼は、カーンから紹介された人物で、家柄もしっかりしており、兄弟のエドウィンも金持ちでした。ブルーメンタールは、旅費まで送ってよこし、ケイシーの一家はその招きに応じて、ニューヨークを訪れることになったのです。それは、1925年、ケイシー四十八歳の時のことでした。

 

ブルーメンタールは、すぐケイシーと仲良くなり、それ以降六年ほどの間に、五百回近くものリーディングをしてもらったといいます。

 大半は見た夢の解析を求めるものでしたが、中には、それに関連づけて投資の手がかりとなる情報を得る場合もあったようです。

 夢のリーディングは、ブルーメンタールが初めてだったそうですが、彼の場合に刺激されて、ケイシーは自分自身の夢の解釈もいろいろ試み、「エドガー・ケイシー奇跡の生涯」には、興味深い夢の実例がいくつか紹介されています。
 たとえば、ケイシーが生涯に五十回以上も見た同じ夢は、「ベールをかぶった女性」に導かれて高い崖の下にやってくる、という内容なのですが、これは、人生に変化が起きようとするときには必ず現れた、といいます。
 そのほか、頻繁に見るものに、自分が小さな泡粒に化身して光に導かれていくと、ある記録所で大きな本を手渡される、という夢もありました。これは、自分の魂がこの世とは異次元の領域に移動し、そこで、あらゆる人 (魂) の情報を細かく記録した「命の書」、と呼ばれるものに触れることを許される、という意味を持っていました。
 ケイシーは、夢について、次のように結論しました。「エドガー・ケイシー奇跡の生涯」から引用しますと、
いわく「夢には種々さまざまなタイプがあることがわかりました。その中には対人関係にまつわる夢も多いのですが、今後の状況について警告する場合もあれば、問題の解決策をほのめかす場合もあります。助言とか教訓が込められている夢も少なくありません。また、将来の出来事を予言する夢もあります。」と。

 ところで、バージニアビーチに病院を、という年来のケイシーの夢は、じっさい突如として、実現しそうな展開となりました。それは、ブルーメンタールが、ケイシーに共感して、強力にバックアップすることを申し出てくれたからで、同じ1925年の初秋、ケイシーと彼の家族は、ひとまず先に現地に引っ越したのです。
 当時、バージニアビーチは、閑散とした漁村に過ぎませんでしたが、新しい夏のリゾート地として、脚光を浴び始めたところでした。年毎に道路も整備されて開発が進み、病院の新規参入は、事業としての将来性も十分あったようです。
 しかし、青写真までは描けても、肝心な建設資金の捻出は容易ではなく、ケイシーの個人的なつながりだけでは、思ったように寄付金も集まりませんでした。そこで、ケイシー、ブルーメンタール、カーンなどを理事として、「全国研究者協会」なる組織を立ち上げ、啓蒙病院設立の趣旨を全国的にアピールもしました。
 こうしたいろいろな紆余曲折を経て、ようやく建設に着工できたのは、さらに三年がたった1928年の夏のこと、そして、最終的な「ケイシー研究啓蒙病院」の竣工オープンは、翌1929年9月、じつにケイシー五十二歳の時になるのでした。

 

「ケイシー研究啓蒙病院」は、至れり尽くせりの素晴らしい病院で、南部の豪邸のような建物の正面玄関前には、一望できる海が広がっていたといわれます。

 また、クラブハウスやテニスコートなどの付属設備のほか、職員の福利施設も充実し、すべてにおいて州で一番の病院を目指して、惜しげもなく資金が使われました。
 大勢の患者も見学者も、だれもが十分満足して、病院を後にしていきました。ことのほか多忙であったにもかかわらず、ケイシーにとっても、それはきわめて充実した毎日でした。
 たまたまオープン直後の1929年10月に起こった、ウォール街の株価大暴落とそれに続く大恐慌も、この病院にはなんら影響を及ぼさないかのように思われました。それほど、一年目の経営は、順調そのものだったのです。

 「全国研究者協会」も活発な活動を開始しており、たとえば職員のシュローヤーは、ケイシーのリーディング情報を多方面に応用できるように、詳細な索引分けなどの作業を推進しました。この作業は後に、グラディス・デイビスが引き継ぎ、今ではリーディングのCD-ROM版が公開されており、お陰でケイシーは、「世界一よく、文書でその能力が証明されている霊能者(「エドガー・ケイシー奇跡の生涯」から引用)とまでいわれるに至ったのです。
 協会ではまた、機関誌の発行を初め、病院の会議室を借りての教育的な講義なども開催しました。そして何といっても、力が注がれたのが、付属の心霊研究所を持つ、アトランティック総合大学 (AU) の建設構想でした。
 ブルーメンタールは、このプランに非常な執着を示し、どんどん計画を進め、早くも翌1930年の秋には、校舎の竣工を待たず、ホテルの部屋を教室がわりにして、大学は開講したのです。

 しかし、この大学の経営こそが、命取りとなりました。
 というのも、同時期しかもごく近所に、AUのライバルの大学がオープンしたことで、当初の予定通り学費が集まらなかったことに加え、病院と大学の両方の経営権を握ったブルーメンタールによって、病院の運営資金が勝手に、大学の方に回されたりしたからです。
 それやこれやで、ケイシーとブルーメンタールの間も、修復不可能なほどに溝ができてしまい、ついに二人は、永遠にたもとを分かつことになったのです。
 結局、病院は閉鎖され、協会も解散することになりました。それは、1931年2月のことでしたが、ちなみにAUも、同年12月に閉鎖に追い込まれたということです。

 

こうして、ケイシーの理想の病院は、わずか一年半で、完全にこの地上から姿を消してしまいましたが、リーディングを信じる人々は、相変わらずケイシーに救いを求めました。

 そこで、そのような人々の意見を集約して、1931年の7月には、新組織の 「研究啓蒙協会(ARE)」 が発足しました。
 前回の 「全国研究者協会」 の失敗にこりて、AREの設立目的の中には、博愛精神にもとづく思いやりの心を持つことと、利潤を追求しないこと、の二つが明記されたのです。
 翌1932年夏、ケイシーは、裁判の果てに、ブルーメンタールの借家から立ち退かされてしまったため、もとの病院の建物 (この頃はホテルに変身していたそうで、やがてそのホテルも潰れてしまいます) のちょうど前の家に引っ越しており、第一回ARE大会はそこで開かれました。
 晩年のケイシーは、多少の住まいの変更はあったものの、死ぬまで、このバージニアビーチの土地を離れることはありませんでした。彼は、静穏な暮らしの中で、一日二回のリーディングを日課とし、毎年夏に一週間かけて開催される、AREの大会を大きな楽しみにしていたといいます。

 ところが、1943年に、トマス・サグルーによるケイシーの伝記、「川がある」が出版されるにおよんで、ケイシーの生活は激変してしまいます。患者からのこれまでのような依頼に加えて、おりからの第二次世界大戦で、戦場に送られた兵士たちの安否に関する問い合わせが、アメリカ中から殺到したのです。
 六十六歳のケイシーは、そのすべての依頼や悩みの手紙に目をとおし、一人でも多くの人の手助けになりたいと、毎日十二回ものリーディングを、じつに献身的にこなします。
 しかし、それでもなお、リーディングの予約は一年先まで埋まっているありさまで、やがて、その孤軍奮闘の奉仕が身体をいちじるしく損ね、1944年の夏にはもう、タイプライターを叩くこともできないほどに衰弱してしまいました。
 同年9月に行われた、自分自身に関する最後のリーディングでは、エネルギーを補給しないまま、立て続けにリーディングを行った結果、神経が完全にすりへって衰弱に至ったことが、はっきりと示されたそうです。結局、ケイシーは、一時的な小康状態を得ることはできても、二度と以前の彼に戻ることはできませんでした。

 1945年1月3日、大戦の終結をたしかめることなく、ケイシーは、バージニアビーチで、六十七歳の生涯を閉じました。
 やがて同年の4月、彼をささえ続けた妻のガートルードも、続いてこの世を去り、二人はともに、故郷のホプキンスビルに葬られたということです。

 ケイシーの霊能力に関しては、生前も没後も、支持と不支持が相半ばするものであったといわれます。
 しかし、ケイシーの飾り気のない暖かなぼくとつさ、広告をけっして行わなかったにもかかわらず患者の方が彼のリーディングを求めたという事実、彼が身をもって示そうとしたキリスト教徒としてのあるべき姿は、彼に何らかのかかわりを持った人々の間では、いつまでも忘れられることはありませんでした。
 そして二十年が経った1967年、ジェス・スターンの著した伝記「眠れる予言者」は、アメリカでベストセラーとなり、ふたたびケイシーの事績が再認識されるとともに、AREもさらに大きく発展をとげ、彼の遺したリーディングにも、また新たな活用の光が当てられることになったのです。

 

参考文献(外部リンク):

書名 著者/訳者 出版社/出版年次
エドガー・ケイシー
奇跡の生涯
(A・ロバート・スミス
編による自伝)
エドガー・ケイシー著
三山一訳
中央アート出版社
2003年

 

 

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