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その生涯(続き)
中期
新しく勤めた文房具会社では、例の特殊技能でカタログの商品をすべて暗記してしまい、なにかと重宝がられます。
また、大金持ちの令嬢に気に入られて、会社の売り上げに大いに貢献するなど、しごく順調だったのですが、二年ほどすると、父親のレスリーが始めた共済保険の外交員の仕事を手伝うことになり、会社を辞めて、またホプキンスビルに戻りました。
ところが、それからいくらもしない1900年3月27日
(エドガー二十三歳) の朝、目が覚めると、突然、小声でしか話せなくなっていたのです。
前の日に、激しい頭痛があった以外は、これといった原因は、まったく思い浮かびません。しかも、失声症にたいするあらゆる治療にもかかわらず、この日から丸一年以上にわたって、彼の声は戻らず、身体そのものの健康状態すら、衰えていく一方でした。この間、外交員の仕事を継続することができなくなったので、あまり声を使わなくてもすむ写真館の見習いへと、職業替えも行いました。
しまいに、もうほとんど声が出ないところまで悪化していたある時、催眠術にかけられている間だけは、ちゃんとふつうに話せることが判明しました。それが大きなヒントとなって、早速、エドガーを催眠状態にした上で、彼自身に自分の身体の状態を語らせるという、一種の催眠暗示療法が施されることになりました。そしてそれは、じつに感動的な成果をあげたのです。
「エドガー・ケイシー奇跡の生涯」から引用しながら、そのありさまをご紹介してみますと、こんな風だったようです。
まず、催眠療法師のアル・レインによって催眠状態に入った長椅子上のエドガーに、「あなたは自分の姿を見る」から始めて、応答形式で、一連の暗示をかけていきます。すると、それに答えて、エドガーはもと通りの声で、このように説明しました。
いわく「ああ、その体が見える。ふだんの体調では、この体は話すことができない。声帯の下側の筋肉が部分的に麻痺しているせいだ。(中略)これは、この無意識状態にいるうちに暗示を与えて、患部の血行を良くすれば治せるかもしれない。」と。
そこで次に、レインが患者に、声帯部分に血液を十分に送るように、と暗示をかけてやると、眠っているエドガーの喉と胸の上部はバラ色へと徐々に変化し、やがて目を覚ました彼は、一年ぶりにもとの声で話すことができたのです。失声症はその後も、時々再発しましたが、この同じやり方でその都度改善し、やがて完治してしまいました。
この思った以上の治療効果にレインは驚き、今度は、胃の調子が悪かった彼自身を、エドガーに同じように診断させることにしました。
さらに、指示されたとおりの治療法を試してみたところ、たしかに良くなっていくことが実感できたのです。
そこでレインは、ある確信を抱き、新たに診療所を開いて、当時まったく乗り気ではなかったエドガーから、一般のいろいろな患者に関する診断や指示を、引きだし始めました。レインは、催眠状態のエドガーの言葉をメモ
(これをレインは、"リーディング"と呼びました)
して、それをもとに、治療行為を行ったのです。
しかし、エドガーには、その手助けから報酬を得ることなどは、思いもよりませんでした。それどころか、彼は、自分の無意識の行為にたいする、懐疑と不安につきまとわれ続けました。自分の知らない自分が、いつか患者に決定的なダメージを与えるのではないかと、それを恐れました。というのも、およそ医学的知識をまったく持ち合わせていないにもかかわらず、リーディングでの指示の中には、むつかしい専門用語や薬の名前などが、ごく当たり前のこととして登場してきたからです。
一方、エドガーの助言によって良くなった人々からの、感謝の声が少しずつ聞こえてきたのもまた事実で、それらの板挟みになって、エドガーはひどく悩んだのでした。
結局エドガーは、五十キロほど離れたボーリンググリーンの町に、一人で引っ越してしまいます。それでも、レインとの関係は、完全には断ち切れなかったのですが。
エイミー・ディートリックにたいする、奇跡とも呼ばれるリーディング (その内容については、リーディングの事例についての別項でも、少し触れてあります)
が行われたのも、ちょうどこの頃、エドガーが二十五歳の夏のことであったといわれます。
1903年6月、エドガーとガートルードは、ようやく結婚することができ、ボーリンググリーンに新居を構えました。しかしその直後、たまたま地元の新聞に、リーディングのことが大きく報道されたことから端を発して、レインは医師会から営業停止処分を受けましたし、エドガー自身も、教会から異端の疑いで喚問されるなど、大騒動に巻き込まれてしまいます。ただそのお陰で、エドガーからリーディング情報を引き出すための誘導役は、レインに限らず誰でもかまわない、という新事実の発見もありました。
この後数年にわたり、エドガーは、ボーリンググリーンで、医者や科学者の主催する、催眠暗示や霊能力に関するいろいろな実験にも引っぱり出され、有名なトマス・エジソンなどにも知遇を得たそうです。
それでも、エドガーの本業は、あくまで写真技師でした。
結婚後、テネシー州の写真学校で改めて正式の教育を受けた彼は、ケイシー写真館などを開業しました。エドガーは、写真コンテストで優勝するなど、プロのカメラマンとしての腕もたしかで、経営も順調でしたが、その写真館は、二年ほどすると火事で焼けてしまい、大きな借金だけが残ります。
そんな中で、良いこともあって、三十歳を目前にして、長男のヒュー・リンが誕生しています。ヒュー・リンは、後に、父親の研究啓蒙協会 (ARE) を受け継ぎ、国際的団体にまとめ上げるのに力を尽くしたのです。
この頃のエドガーのリーディングについては、ちょっとした状況の変化が生じていました。
無報酬の「実験」で救われ、心からなる感謝を寄せる、以前どおりの病める人々に加えて、その「実験」を、一攫千金のために利用しようともくろむ人々が、ちらほら彼の周りに現れ始めたのです。
ジョーというある若者は、エドガーが借金を背負っていることを聞き込んで、小麦相場を予想してくれれば借金を肩代わりしよう、と誘いをかけてきました。結局そのリーディングは行われ、ジョーは三日間で二万ドルを稼いだともいわれます。ジョーは、そのほかにも、競馬の予想の話も持ち込み、そのいくつかでも金を稼いだそうです。
後には、父親のレスリーまでが、取引先からのたっての頼みで、相場の情報を知りたがるありさまでした。そのほか、先祖の「宝」探しにかり出されてみたり、警察からは謎の犯罪事件への協力を依頼されることなどもありました。
それらは、おおむね所定の成果をあげることができたのですが、少なくとも金儲け目的のほとんどの場合、エドガー自身にとって、リーディングの後のエネルギーの消耗が激しく、しばらくの間、心身の不調に悩まされることが分かりました。その上、このような怪しげな依頼はもちろん、善意のリーディングの際でも、いくら努力しても催眠状態にすら入れない、といったことが頻繁に起きたのです。
また、エドガーだけではなく、こうして金を儲けた依頼者も、けっして幸せにはならないように見えました。たとえば、ジョーは、まもなく健康をいちじるしく損ね、情緒不安定をもきたして、精神病院に送り込まれてしまいました。
それらの出来事は、まさしく、エドガーと彼の霊能力にたいする、最初の試練ともいえるものだったのでしょう。
「エドガー・ケイシー奇跡の生涯」から引用しますと、エドガー自身、その時の気持ちをこのように語っています。
いわく「そこで、リーディングとは完全に縁を切ることにしました。自分の力をもてあそぶことをやめ、実験もやめて、そこに何かがひそんでいるのかどうか、自分の頭で判断しようとしたのです。ボーリンググリーンでの商売も切りあげ、親元へ戻って何ヵ月か休養をとりました。聖書の勉強も始め、すべてにおいて心を込めて祈りました。全身全霊がこんなに急変してしまったのは、こういう情報を投資でもうけるために使おうとしたせいだとよくわかりました。」と。
彼は、過去のつながりを整理しようと、妻子を実家に残し、しばらく一人だけでアラバマ州のガスデンに赴き、巡回写真家としてのみ生活することにしたのです。
そこでの、一年を超える豊かな自然との触れ合いは、エドガーの心身を完全にいやしたようで、病の人を対象とするリーディング能力が復活したことが確認されたのは、ようやく、彼三十三歳の初夏のことだったのです。
ちょうどその頃、エドガーは、ウェズレー・ケッチャムという医学博士の訪問を受けます。ケッチャムは、自分自身についてのリーディングを行わせ、さらに内緒で、その速記までさせました。それを含めた二,三の事例によって、リーディングの意義を確信したケッチャムは、エドガーに断りもなく、ボストンの学会で、それを論文発表します。
しかしそれがきっかけとなって、ニューヨークタイムスを初めとする多くの全国紙にも、写真入りの記事が掲載されました。それは、1910年10月のことで、こうして、エドガーの名前とリーディングのことは、アメリカ中に知れわたることになったのです。
まもなく、ケッチャムらのすすめもあって、エドガーはホプキンスビルに戻り、本業の写真館と併設で、新しく、診療所を開業します。ケッチャムとはリーディング契約をかわし、速記者も雇って、ここに正式に、心霊診断士としての公の活動を始めたのです。
地元医師会からの圧力にもかかわらず、患者はあふれんばかりの状態で、ケイシーはひたすら、病める人々のためのリーディングに励んだのでした。
1911年は、三十四歳のケイシーにとって、悲しい年であり、また、神の恩寵に救われた年でもありました。
まず、3月に生まれた第二子のミルトン・ポーター (この子供については、リーディングの事例についての別項でも、少し触れてあります) は、百日咳のため、六週間生きただけで亡くなってしまいます。ケイシーは、この時なぜかリーディングを行っておらず、そのことで後々まで、罪悪感を抱き続けていたともいわれます。
さらに、心労から体調をくずしたガートルードは、結核を併発して、夏の終わりにはもう、肺出血のため、あと一週間も持たないと宣告されるほどの重体になってしまいました。
医者から見放された以上、ケイシーには、最後の望みはリーディングだけである、ということがはっきり分かっていました。しかし、ちょうど外科医が、家族のむつかしい手術を自ら執刀したがらないように、ケイシーもそれまで、亡くなった子供の場合も含めて、生死を賭ける家族へのリーディングは、試みる勇気が持てなかったのです。
それでも、一刻の猶予も許されない状況のもと、ついに彼は、リーディングを決意します。彼が回想したように、ほんとうに「やけくそ」であったのかも知れません。
そのリーディングの詳細は述べられていませんし、ケイシー自身、当座は、ほんとうにそれがリーディングのお陰なのか半信半疑であったといわれます。けれど、ともかく、そこで指示された薬を使ったところ、肺からの出血は止まり、熱も下がって、二週間たたないうちに、患者が危機を脱したのが確認できたことだけは、紛れもない事実だったのです。
そのリーディングの体験は、ケイシーに、神への感謝を新たにさせ、自分に与えられた使命のようなものを、再認識させることになったといいます。
その後まもなく、ケイシーは、仲間のケッチャムが最初の志を忘れ、単に金儲けのためだけにリーディングを利用していることに気づいたことから、彼とたもとを分かちました。
そして今度も、彼は一人で、アラバマ州のセルマに引っ越し、別な写真館を開いたのです。この時点で、三十五歳のケイシーには、心霊治療に関する具体的な将来のプランは、何もありませんでした。
セルマの時代には、後にケイシーの盟友となる、デイビッド・カーンとの出会いがありました。
またまもなく、健康を回復したガートルードと長男は、セルマでケイシーと一緒に暮らすようになりました。
そんな矢先、今度は、長男のヒュー・リンが、写真用のフラッシュパウダーの爆発事故で、ほとんど失明を覚悟しなければならないほどの、大怪我をしてしまいます。この時にも、ケイシーのリーディングは、奇跡的な効果をもたらし、やがて一年後には、目は完治したのでした。
1918年2月には、第三子となる次男のエドガー・エバンスが誕生してもいます。
この時期のリーディングで興味深いこととして、患者の身体的情報にまじって、最初はほんの付けたりのように、そのほかの予言的な情報が少しずつもたらされ始めた、ということがあげられます。
親友カーンの人生に起こるであろう、将来の情報が伝えられたりしたのもその一例で、ちょうどその頃勃発していた第一次世界大戦に従軍したカーンは、時々、リーディングをとおして自分の運命を教えてもらったりしたといいます。
また、自分にたいするリーディングの無意識状態で、ケイシーが「死者」と交信をするという、珍しい体験もありました。その時には、彼が以前に日曜学校で教え、今度の大戦のせいでフランスで戦死していた三人の少年たちが、最後に会ったときの姿のまま出てきて、自分たちの死のありさまを語り、家族へのメッセージを伝えてきたといいます。さらに、別の時には、数年前に亡くなった次男のミルトン・ポーターが現れて、彼にほほえみかけながら、天界で無事に過ごしていると伝えてきたりもしました。
ある時には、占星術師からの依頼で、ケイシーはこんな実験を行ってもいます。
それは、天体の惑星が果たして人間の運命を左右しているものかどうか、そしてもし影響がほんとうなら、ケイシー自身の場合には具体的にどのようであるのかを、リーディングによって確認してみようというものでした。このリーディングの具体的な内容については、「エドガー・ケイシー奇跡の生涯240~245p」にも、抜粋して紹介されていますので、興味のある方は、ご参照ください。
これらの、リーディング時の新しい模索や展開は、後に、"ライフリーディング
(転生リーディング)" という形で、その手法が確立されることになりました。一方、それに対して従来のものは、"フィジカルリーディング
(身体リーディング)" と呼ばれることになるのです。
(続く)
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